ライヴ・イヴェント NAKED FOLK SINGERS-ギターをとって弦を張れ!中川五郎×三浦久 10・08 下北沢ラ・カーニャ
うたうことば
「歌は歌われるべきものであり、読むものではない」。とはボブ・ディランのノーベル文学賞受賞記念講演の中のことば。しかし、ただでさえヒアリングの落第生だったぼくにとって、海の向こうの歌を聞くことは70%くらいは聞くものであっても、30%くらいは読むものだった。特にボブ・ディランやブルース・スプリングスティーン、レナード・コーエン等々、詞やメッセージに重きを置くアーティストの場合には尚更。そして彼らのうたを聞くとき、その「聞く」と「読む」の比率は時に拮抗してしまうことさえあったと思う。
中川五郎さんと三浦久さんはフォークシンガーであり、また共に歌の翻訳者でもあるので、今回の受賞に際して世の中が(そしてディランが)見せた戸惑いも、逆にその受賞の正当性も十分知っておられるだろうと思う。「私が書いているのは文学なのか?」と自問してディランは言うが、自らもステージに立ち歌うこの翻訳者二人も、こう思ったことはないだろうか?今訳しているこのことばは文学なのか?歌なのか?と。
白状するとぼくがお二人の歌を聞いたのは、その訳業に親しんでから随分と後のこと。長い間、五郎さんも三浦さんもぼくにとっては歌の翻訳者としてあった。だから初めて二人の歌を聞いた時のストレートに言葉が耳に届く驚きといったらなかった。ディランやスプリングスティーンの歌を介してぼんやりと見えていたものが突然、ハッキリ姿を現したような、そんな感じがしたのだ。
五郎さんの「トーキング烏山神社の椎の木ブルース」をライブで聞いた時、ぼくはディランの「ハッティ・キャロルの寂しい死」等のプロテストソングを初めて理解した。また三浦さんの、市井にいる(た)人々の姓名が出てくる数々の物語風の歌を聞いて、スプリングスティーンのフォークアルバム『ネブラスカ』や『ゴースト オブ トムジョード』の中の歌たちが、海の向こうの人たちにどのように聞こえているのかを教えられた気がした。
「トーキング~」を聞いて、後日、僕は烏山に例の椎の木を見に行った。そして三浦さんの「カムサハムニダ イ スヒョン」を聞いて新大久保駅のホームに立ってみた。どれだけ時を経ても決して許されない差別への抗議の歌が、真昼の神社に静かに立つ椎の木の中にあった。また一人の青年が示した勇気を讃える歌が、電車が入ってくるJR山手線のホームのざわめきの中にあった。もしかしたらぼくらを取り巻いている風景、世界、それ自体が「歌」なのかもしれないとその時思った。
「アウトローは正直でなければ生きていけない」、「回り道をしない人生に何の意味がある?」「空ゆく鳥は空の鎖から自由だろうか?」・・・・ディランの歌にはその一行で人の生き方を変えてしまうようなフレーズがいっぱいある。それに比べると「歌は歌われるべきものであり、読むものではない」という、歌ではない彼の講演の中の言葉は一見ありふれている。でも上に書いたように「歌」の事を考えると、そのことばは違う意味を持って響いてくる。そして、「歌=フォークソング」としても良いのだが、五郎さんと三浦さんはそのようなフォークシンガーで、この不穏な時代に二人の歌を聞き共に歌うことは、それに対する一つの処方箋のように思うのだ。
歌の翻訳とは詰まるところ、一緒に歌うということではないだろうか?二人はずっとそれをやっててこられた。ぼくらはただそれを読んでいただけなのかもしれない。今こそぼくらも一緒に歌う時なのだ。Sing !
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