いわきアリオスウォールギャラリー企画「いわきニュー・シネマ・パラダイス」に寄せて。
いわきアリオスウォールギャラリーの「いわきニュー・シネマ・パラダイス」という企画に文章を寄せてくれと依頼がありました。“いわきで見た映画の思い出”とのこと。以下、その文章です。
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『ホームランとカルメン』
小さい頃、母に連れられて行った怪獣映画やアニメ映画以外の映画を初めて映画館で見たのは、平駅(現いわき駅)前の「聚楽館」だと思う。“思う”と書いたのは、当時は複数館体制だったので、実際は「アポロ座」だったのかもしれないし「平東宝」だったのかもしれない。1976年でぼくは11才で小学校5年生だった。
見た映画は『がんばれ、ベアーズ(1976 米 マイケル・リッチー監督 )』と『激走!5000キロ(1976 米 チャック・ベイル監督 )』の二本立て。元社会人野球の選手だった父に連れられて弟と3人で見た。子供会のスポーツ少年団のソフトボールチームに属し(今はどうか知らないが、当時のいわきの子供たちは野球ではなくソフトボールをやっていた。そして野球をやっているつもりになっていた。)、そして弟とビートルズを初めて聞いて夢中になり始めたのもこの頃のこと。
「見た映画の思い出」ではなく「映画館の思い出」ということで語らせてもらえば、この時、父がチケットを買うのに並んでいる間、ぼくと弟は隣の館のポスターを眺めていたのだが、そのポスターは『ラストワルツ(1976 米 マーチン・スコッセジ監督 )』だった。4人のカナダ人と1人のアメリカ人からなるロックバンドThe Bandの解散コンサートを捉えたドキュメンタリー映画。だが、勿論、そんな事は当時子供のぼくらは知るわけはなく、ただ映画のワンシーンを捉えた一枚のスチール写真に釘付けになっていただけだった。映っていたのはリンゴ・スター。今の人には信じられないかもしれないが、あの頃は好きな外国のミュージシャンが動いてる姿を見る機会など皆無に等しかった。動いているビートルズが見れる!「こっちでもいいな」と、弟と言い合ったのを思い出す。
ちなみにこの初めての映画体験である『がんばれ、ベアーズ』にはロックに纏わるこんなシーンがある。テイタム・オニール演じる主人公の女の子は後にチームの主力となる不良少年とある賭けをした結果、デートをすることになるが、そのデートがローリングストーンズのコンサートなのだ。ウォルター・マッソー演じる監督が「ガキのくせにストーンズ?」みたいに言うのを聞いて、子供のぼくはストーンズという単語を何かとても大人びた、そして少しいかがわしい「場所」のように、その時、想像した。
それから13年後、1989年の夏に父はこの世を去ったが、その初七日も終わらぬうちにぼくはアメリカ旅行に出かけ、その道すがら、当時、日本には来日できないと信じられていたローリング・ストーンズのコンサートをフィラディルフィアで見た。「スティール・ホイールズ・ツアー」の初日。アンコールの曲が終わりメンバーがステージを去った後、何発もの花火が打ち上げられ、映画「Let's spend the night together」の時のようにジミ・ヘンドリックスの「星条旗よ永遠なれ」が流れると思っていたらそうではなく、曲はなんと不意打ちのようにビゼーの「カルメン」だった。「カルメン」は「がんばれ、ベアーズ」の挿入曲。平の映画館のスクリーンに弧を描いた不良少年ケリーが撃った打球が時空を超えフィラディルフィアの夜空に届いたような気がした。そしてその時も、ああ、父と平の駅前でベアーズを見たな、と思った。
大学進学を契機に、ずっとぼくは東京で生きることになって、特に原発事故以降、様々な事情からいわきに帰る機会は以前よりさらに少なくなった。そしてたまに帰ると平の街の変貌ぶりにいつも驚かされる。だが、当たり前だが街は変わっても思い出は残る。そしてぼくの少年時代の思い出は上に書いたように思わぬところで見た映画と繋がっていて、その映画の多くは平の街で見た映画だ。
今度「ポレポレいわき」(「聚楽館」の後身)は2シアターを残して存続…と、従来とは少し形が変わってしまうと聞いたが淋しくない。どんな形であれ映画が上映され続ける限り、そこに新し思い出が生まれ続けることを知っているからだ。ぼくはもう50を過ぎたが、あの前を歩くと今も頭の中で「カルメン」が流れ出す。
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