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繋ぐ

―下村誠13回忌ライブ 
BOUND FOR GLORY 2019を見て 下村さんにー

もし歌に手足が生えていたら
君みたいじゃなかったろうか、と思う
雑踏の中を君が歩く時
その帽子が
ゆれながら行くさまは
音符がふわふわと
飛んでいるのを見るようで
まるで君自身が通りに流れる
歌みたいだと思ったよ

いつも誰かへの贈り物を
隠し持っていた君
あげるものが何もない時は
店のテーブルのナプキンに
詩を書いて
あげたりしてた
別にイケメンでもないのに
そんな行為が
気障にならなかったのは
君自身が歌だったからだと
今なら分かる
君は人のフリした歌だったんだ

ぼくらの分からない
「歌の国」の掟には
歌が人でいられる時間が
きっと決められていて
その時が来たからなのか
それとも
人としての自由を
使い果たしたからなのか
君はあっけなく消えた

預かっといて、と忘れたままの
帽子とギターと
ハーモニカホルダー
でもいつしかそれも
失くしてしまって13年
今日、ようやく
ぼくは君の正体に気がついた
君は人のフリした歌だったんだ
歌は口から口へと人を繋ぐ

そうか 
君が人の形をしていた時に
やってたことってそれだったんだね。

 

                        2019.11.17

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ミーワムーラの3枚。

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『ここにいる ここにある』(2013)

 アルバムのテーマは「海」だ(と思う)。そう告げるのはトロピカルなティストのアレンジが魅力の一曲目「走出スウィング」。だがトロピカルと言っても凡百のリゾートミュージックに堕してしまわないのは確かな歌唱と「ことば」があるからだろう。菅原ミワの描写力。この後、誰しもの胸を打つことになる彼女の映像的な詩作の数々はこの曲の中にすでに胎動がある。そしていわきをベースに活動するこのデュオの全国流通盤の冒頭を飾るにこれはなんとふさわしい一曲だろうか。鮮やかな出走 。

2曲目の「祈り歌」はドキュメンタリー映画『シバサシ~安里清信の残照~』(監督:輿石正 2012)の挿入歌。70年代に沖縄の住民運動の中で中心的な役割を果たした人物の生涯を追ったこの映画を筆者は未見だが、決して表立ったプロテストをしなくとも、原発事故を体験した菅原と村重の二人が創造する音楽の核に、実はどんな想いがあるのかを思い知る一曲だ。先ほど菅原の詩作について触れたばかりだが、この曲は彼女のペンによるものではない(作詞作曲 山城美由紀 間詩 輿石正 )。だがまるで自身の胸の内から発せられたことばのように歌う彼女の歌唱は感動的だ。また途中の朗読(決してポエトリーリーディングとかスポークンワーズではない)も真っ直ぐに胸に入ってきて、この曲の、良い意味での宗教性を高めていると思った。

菅原のことばかり書いたが3曲目『凪の雨』はムーラこと村重光敏の作。菅原の声で歌われるので中和されているが、これは本来、男の詩(うた)ではないか。アレンジから個人的に想起するのはドキュメンタリー映画『縄文号とパクール号の航海』や漫画『怪獣の子供』等、海洋冒険ものの数々だ。帆に受ける風だけを推進力とする船の軌跡のような村重の間奏のギターに海の野生を感じる。

そしてこのミニアルバムの最後を飾るのは一曲目に続き菅原ミワのペンによる『海辺のあしあと』。前3曲に比べ極力装飾を排したフォークロックだが、"陽が沈んでも 海辺で待つよ"というサビの一行に海辺での暮らしの柔らかさを思って羨ましく思った。海は同じ場所からでも一日の時間の中で幾つもの表情を見せるものだろう。収められたのはそのそれぞれを掬い上げたような4曲。発表は福島原発事故から2年後の2013年だが自分は長くこれを聞かなかった。不覚。同郷の自分にとってはいわきの海を返してくれた1枚である。

 

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『道』(2015)

 ベアナックル(素手)のミーワムーラ。今作を一言で言い表すならそうなる。全曲二人の演奏と歌のみの作品。余分なものを排し、このユニットのエッセンスだけがここにある。ここに収められたナンバーの幾つかを自分はYouTube動画のライブ映像であらかじめ知っていたが、さてアルバムではそれぞれどのようなアレンジが施されているのだろうと思っていたので聞いた時は驚いた。なんという臨場感。ミーワムーラのライブを体験したことがない人はこのアルバムを聞けば良い。ステレオのボリュームを少し上げて。まるでスピーカーの中で二人が演奏しているようではないか。

 ボブ・ディランの『血の轍』がギターアルバムというのと同じ意味で本作はギターアルバムだ。ギターアンサンブルの素晴らしさ、特に2曲目『種』における耳に心地いいカッティングとそれに絡みつく村重のインプロビゼーションといったらどうだろう。その他、音色の選び方、間の取り方、それぞれの曲の中でのいちいちが玄人好みのヴィンテージプレイ。彼が「いわきの至宝」と言われる所以だろう。

 さて音以外の事、アートワークについて。ミーワムーラのアルバムジャケットは今のところ全て菅原ミワ自身の版画作品によるものだが、本作のこの絵にタイトルが「道」と聞けば誰もが想起するのはフェリーニの映画『道』(1954)だろう。フェリーニがネオリアリズムの手法で撮った最後の映画と言われる『道』。3曲目の表題曲『道』はこの映画へのオマージュと思われるが、だが菅原はジェルソミーナのようではないし、村重はザンパノのようではない。ただここで注目したいのは「ネオリアリズム」と言うことば。本来、社会を告発するために編み出されたイタリア映画のこの手法を、フェリーニ―は『道』で「プロテスト」のためでなく「人生」を表現するために使った。低い視線と平易なことば、即興的な演出、徹底したリアリズムの追求。そして勝手な解釈だがこのアルバムも同じようだ、と自分は思うのだ。

1曲目『えなじぃ』での執拗と思えるほどの風景描写は菅原のリアリズム追求への意思の表れだが、その視線は曲が進むごとにあらゆるものを見逃すまいとし、その触手はやがては自身の内面にも伸びてゆく。そしてラストナンバー『夕凪の坂道』の冒頭はこう。“雲をつかんで虹をつかんで 光さえもつかめるものだとしたら 君を見失った自分が少しでも許される気がする”。ここで初めて歌は何事かを告白する。誰の中にもある密かな悔悟。そしてそれが許される時の静けさと風の匂いまでもがしてくるようなギターの演奏と歌声。映画『道』のザンパノは許されず後悔の中に取り残されるが、ミーワムーラのアルバム『道』では主人公=リスナーは許される。許すのは一枚の風景、「ぼんやり滲んで輝く夕凪の坂道」だ。歌はなんという場所にぼくらを置き去るのだろうか。音楽にはまだこんなことができる。こんな力がある。

 

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『小さな歩み』(2017)

 最初に聞いたのがこのアルバムだったのでこの「黒っぽさ」が特別なことに気付かなかった。初のフルアルバムで全11曲。前作、前々作に無くてこの『小さな歩み』にあるのは「黒っぽさ」=ブルースフィーリング(だと思う)。曲で言えば『ヨタカ』『お師匠さん』『どのくらいの時が過ぎているのだろう』の3曲。特にオープニングを飾る『ヨタカ』は傑作だ。“灯台の灯りが家の中に入る。おいらの生活は家と堤防の往復しかない”。隠者のように、夜、堤防から釣り糸を垂らすだけの暮らし。そしてこんな知り合いがいるわけでもないのに、聞く度に福島の夜の海がリアルに迫ってくるのはどうしたわけか。誰も来ない海、誰も居ない丘の上のホテル。前作『道』が古いイタリア映画ならこれは70年代のATG映画。自分はそう感じた。

『お師匠さん』は普段は大工の師匠と弟子の間柄であるという村重と菅原の日常を垣間見れるナンバー。二人が大工と聞いて最初に思ったのはチャックベリーのこと。チャックベリーも大工だった(ちなみにキリスト、バカボンのパパも)。ただチャックが歌詞の中で50’Sのティーンエイジャーの生活を生き生きと活写していたのに対し、こちらは弟子から師匠へ向けたユーモラスなリスペクト。これもワークソングの一種と思えばそれも正当なブルースだったりする。また菅原の、この、はっちゃけた歌いっぷりにかつての関西ブルース、憂歌団、上田正樹&有山淳司、などなどを想起した。

 そして『どのくらいの時が過ぎているのだろう』はジャズブルース的な一曲。決してやさぐれているのではない品のある憂鬱<メランコリー>。菅原の声質がこうした曲に合うのは発見だったのではないか。そういえばニーナ・シモンが好きだと言っていたっけ。リピートして繰り返し聞いてしまった。

と、ここまで「黒い」3曲について長々書いてしまったが、その他のナンバーも個性あふれる名曲ぞろいだ。白眉は『彼岸花』。これはもう未来のスタンダードナンバーと断言していい。丁度、このアルバムを手に入れたのが季節的にぴったりだったので、この秋は何度も泣かされてしまった。それと10曲目の『Truth』。リフレインが無い菅原ナンバーには珍しく“君がそう言うなら 本当のことだろう”と繰り返されるフレーズは、このフェイクニュースとオルタナティブファクトの時代に「信頼」ということをさりげなく教えてくれるようだし、“君がここで生きることはぼくの中に残るだろう”という一行を、自分は見知らぬ土地で生きていくことになった多くの福島人(ふくしまびと)たちへの応援のことばのように聞いて、勝手に切なくなってしまった。

以上、思いつくままに書いたがこのバラエティに富む音楽性の全ては村重のアレンジの才によるものである事を忘れずに書いておく。その引き出しの多さ、懐の深さに脱帽。ミーワムーラを紹介する時の、単に“フォーキー・デュオ”って正しいのだろうか?そんなことを思わせる一枚だ。

https://miwamura.tumblr.com/

 

※ 文中、敬称は略させていただきました。

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