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映画『土を食らう十二か月』を見た

 生きるということは食べることなのだからその行為を突き詰めると様々なことに思い至る。

 偶然なのだが自分が敬愛する作家二人は男子厨房に入らずの時代に育ったと思われるのに料理をする人だった。

 檀一雄と水上勉。檀は母親に出奔され食事を作る人が家に誰も居なかったからと必要に迫られて、水上は貧しさから口減らしのため幼少期から禅寺に預けられそこで精進料理を学んだ。

 今日見た映画『土を食らう十二か月』は後者、水上勉のエッセイを原案としているので、だから出てくる料理はすべて精進料理である。肉は出てこない。見てまずそのことを思った。生きることと死ぬことと食べることがテーマにあるが、そのことで、命を頂く、ということがあからさまに謳われないのが良いと思った。

 代わりに描かれているのは自然との一体感。そのことで若い恋人と料理し、食事する楽しさが大友良英の音楽と相まって軽妙に伝わってくる。野菜を収穫し、料理し食べ、また畑に種を撒く。この前半だけ見ていたら、食レポエッセイ的なライト感覚の映画なのか思ってしまった。(その前半がコントラストとなって後半に効いてくるのだが)。

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 この映画の主演に良く沢田研二を選んだなあ、と、そのキャスティングにまず驚かされる。が、原案になった水上のエッセイの随所にある水上自身の写真を見て、この作家自身も相当に"いい男"であることを思い出した。

 エッセイ自体が元々女性誌に連載されていたものであるというから、そうか、これは元々、いい男が料理する話でもあるのだな、と妙に納得する。でなければ老いているのに若い編集者の恋人がいるという設定にリアリティが出ないだろう。(昔のようにもう美形で売ってないからと、ジュリーは初め断ったと言うか)。

 ジュリーの事ばかり書いたが、共演の松たか子も、近年の怪優ぶり?を知っている分、何事かを内に秘めたようなの雰囲気が出ていて良かった。また奈良岡朋子、火野正平、檀ふみなど脇を固める役者陣もそれぞれに見事だった。

 個人的に檀ふみさんだが、この人、冒頭に書いた檀一雄の娘で、この人が出てくると自分は小説『火宅の人』で鳥小屋の鳥のエサを口に入れてしまう"ふみちゃん"を思い出し、年上の方であるにもかかわらず、立派になられて、、、などと思ってしまう。(映画でも昔の知人として出てくるので、勝手にその郷愁を共有出来て?良かったが)。

 映画は12時から始まって、昼食を食べていなかったので終了時にとても空腹だったが、なんだか帰りがけに安易に外食してはいけないような気になって、我慢し、帰宅して自分で作って食べた。つまりはこれはそういうふうに暮らしに効いてくる映画だということ。

もう一度見ようか。ネットを見ると、2度、3度と見る方がいるみたい。この映画長く尾を引きそう。

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