白石かずこ氏死去
朝から小雨が降っていたが、自分が見た時系列予報では午前の早い時間弱い雨であとはずっと曇りマークだった。なので普通にやるつもりで現場に向かったが途中で中止の電話。またスマホで予報を見ると一日雨マークになっている。これじゃ予報と言うより実況だなあと思う。会社に戻って一日写真整理をした。
友人のSNSで詩人・白石かずこ氏が亡くなったのを知る。自分が初めて金を出して買った現代詩の詩集は氏のものであった。
高校1年の時。理由は佐野元春が影響を受けたと、ある雑誌で言っていたからだが、こういう時は大体買ったけど難しくて分からなかった。。。。となるところ、買って自分も衝撃を受けた。どう衝撃だったかというと、これを「詩」と呼んでいいのか。。。と思ったのだ。
花鳥風月のようなもは何もなくて、感じたのはリズムとビート。韻を踏んでいるとかそういうことではなく行間、言葉の選び方、壊し方とかがジャズのようだった。日本語の破壊と創造が同時に起きている感じがして、紙面からことばが飛び出してくるようだった。長い詩も目で追っていくと音楽のような快感があった。
思い出は三つ。一つ目は日本のウッドストックと呼ばれる1988年富士パノラマスキー場での反原発のイヴェント『いのちの祭り・NO Nukes One Love』のステージ。
10日間、昼夜問わず有名無名様々なアーチストが演奏、パフォーマンスを行ったイヴェントだが、確か白石さんは九日目の夜のステージに登場した。自分は雪のないスキー場の斜面に寝袋を敷いて寝転び、夏の星空を見ながら白石さんの朗読を聞いた。薄い雲が素早く流れていて、星が飛んでいるように見えた。朗読された詩は84年インド・ボパールで起きたアメリカのカーバイト工場で起きた惨劇についての詩『黄色い夜』で、サックスの演奏を伴った朗読(確かドクトル梅津)はかっこよかった。センテンスを区切る独特な朗読で、巫女、シャーマンのようだった。
二つ目はその年の10月の砂防会館。アレンギンズバーグとの共演。
三つめは諏訪優さんの葬儀でのこと。歌人で住職の福島泰樹氏のお寺で、自分は故・下村誠と一緒に行ったのだが、そこでお会いした。他には友川かずき氏。同じビート詩の盟友だった諏訪さんを悼んだ白石さんの弔辞は、しかし詩の朗読の時のような読み方ではなかった。後で下村さんとそのことを言い合ったのを覚えている。
R.I.P。コルトレーンのブルースのようなこの詩を。
ハドソン川のそば 白石かずこ
誰から生まれたって?
ベッドからさ 固い木のベッドから
犬の口から骨つき肉が落ちたように
落ちたようにね
わたしの親はまあるいのさ
月のようにのっぺり
やはり人間の顔してたのさ
人間の匂いがしてたのさ
くらやみの匂いがね
黙ってる森の匂いがね
それっきりだよ ニューヨーク
ハドソン川のそば
わたしはたっている
この川と わたしは同じ
流れている
この川と わたしは同じ
たっている
広すぎてはかれないよね おまえの胸巾
遠すぎてはかれないよ おまえの記憶
生まれた頃まで さかのぼることないよ
わたしの想い出
行き先も今も ただよう胸の中
自分でも はかれないのさ
ハドソン川のそば
ちぢれっ毛の
黒い顔の子 やせて大きい目だよ わたしは
笑うと 泣いてるように
顔がこわれて ゆれだすよ
唄うと 腰をくねらせ
世界中が 腰にあるように 踊るんだよ
名前はビリー
すぎた日の名は知らない
わたしの生まれた 空を知らない
なんていう木か 兄弟のハッパがあったか なかったか
わたしは生まれた うまごやを知らない
ワラのべっどか 木のとこか
それでも わたしはそだった
果実の頬のように
果物屋の 店先で
買えない果物みてるうち
肉屋の店先で
切られていく 豚の足をみてるうち
ハドソン川のそば
ひとりで いまはたつ
すこしおとなになったわたしかかえ
わたしのグランマー グランパー
いとしい恋人 ハドソン川
わたし 流れていくだろうよ 川と一しょに
わたしの胸の中 太く流れるハドソン川と
わたしの胸の中 わたしと流れるハドソン川と
| 固定リンク
「日記 2024年」カテゴリの記事
- 『時給10円の現実~消えゆく農民』というドキュメンタリーを見た(2025.02.08)
- 大晦日。良く生き延びた(2024.12.31)
- 今日も温泉(2024.12.30)
- 昨夜の番組をまた見た。(2024.12.29)
- かぼちゃの殻をむく(2024.12.28)
最近のコメント