日記考(2)

斜陽日記 (小学館文庫) Book 斜陽日記 (小学館文庫)

著者:太田 静子
販売元:小学館
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 先日、NHK・ETV特集で『太宰治“斜陽”への旅~生誕百年・ベストセラー誕生の知られざる物語』を見た。太宰の代表作の一つである『斜陽』が愛人太田静子の日記を基に書かれたことは文学史に名高い事実だが、番組は生誕百年ということもあって娘の治子が太宰と静子の往復書簡など未公開資料を紐解きながら、二人の愛と素顔に迫ろうというものだった。一時間半の番組だったが、知らなかった二人の素顔が色々と明るみになり、飽きることなく一気に見てしまった。

                  ☆

 番組の内容をここで細かく説明するつもりは無いが、紹介された太宰と静子をめぐる様々なエピソードの内、個人的に一番興味深かったのはやはり“日記”に纏わることだ。

 最初の結婚で幼いわが子を死なせてしまったことに深く罪悪感を抱いていた静子は、太宰がかつて起した自らの心中事件をモチーフとして書いた小説『虚構の彷徨』に激しく共鳴する。簡単な手紙のやりとりの後、二人は会い、太宰と静子は初め文学上の“師弟関係”のようになる。

 静子は太宰を師事する一方で、過去の不幸な出来事をなんとか告白体の小説にしようとするが、形にならなず、そして彼女が絶望し、筆を折ろうとした時、太宰は静子にこんな風なアドヴァイスをしたと言う。「身の回りで起きている事を書き留めるようにしてごらん」と。

 文章を書くという事に関しては悪魔的な才能の持ち主の太宰にしてはしごく真っ当なアドヴァイスだなと思って、私には逆にその事がとても印象に残った。“身の回りで起きた事を書き留める”=“日記をつける”ことを太宰は静子に薦めたわけだが、日記こそは私小説の伝統が色濃いわが国の文学の基底を成すものであり、太宰はそのことが分かっていたのだろう。

 何ということも無い日常の出来事を文章にして客観視すると、そこに思いがけない意味や美しさを見つけることがある。太宰は日記をつけるという行為を通して、抱えている苦悩をもっと客観視する訓練をせよ、と静子に言おうとしたのだと思う。何故なら、言うに及ばず太宰こそがそれが恐いまでに“できる”人間だったからだ。

 番組を見る限り、大田静子という女性はとても才能のある人だと思った。静子は太宰に言われる通り、下曽我での母との暮らしを日記につけ始め、初めてその日記を目にした太宰は「想像以上だ。」と言って舌を巻いたと言う。そして、チェーホフの『桜の園』のような貴族が没落していく物語を書きたいと思っていた太宰はこの静子の日記から名作『斜陽』を着想するに至る。

 番組は太宰と静子の手紙も克明に紹介していたが、静子の遊び心に溢れ、それでいてストレートに感情をぶつけるようなそれに比べ、太宰の手紙は意外にも平明で言葉が足りない。そして、またその事を手紙で謝ったりもしているが、そこに私は男の狡さとある計算のようなものを感じた。

 日記を手渡す過程で、静子は太宰の子を身ごもる。お腹に子供がいることを静子に告げられた太宰は、「これで君とは死ねなくなった」と言ったというが、そのことが当初主人公カズコの死によて終わると考えられていた『斜陽』の結末に大きな変更を迫ることになる。小説は一転して、私生児を生んだカズコが新しい価値観を持った、新しい女性として強く生きていこうとする、言わば生を肯定する物語となり、その最後の部分に関して娘治子は「現実とフィクションを混同する大馬鹿者と言われるかもしれないが、これは私達母娘に送られた太宰からの遺書・・・」と言っていて、とても説得力があった。

 『斜陽』がベストセラーとなったその2ヵ月後、太宰治は死ぬ。一方で静子は小説のカズコのように戦後社会の中、女手一つで娘治子を育て生きていく。

 上で私は太宰は静子に日記をつけることで自分を客観視することを薦めたのだと仮定したが、心中事件や薬物中毒の経験、果ては静子との間にあったような愛に対してさえもそれができてしまう自分に太宰はほとほと絶望したのではないかと思う。

 そして、“刺し違える”と言う言葉があるが、静子と太宰の愛はまさにそのようであり、小説『斜陽』は物語と同様、その成立過程においても女性の強さが際立っているとの感想を持った。

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眠れる夜のために

10月はたそがれの国 (創元SF文庫) Book 10月はたそがれの国 (創元SF文庫)

著者:レイ・ブラッドベリ
販売元:東京創元社
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 最近、ブログの更新が滞っていますが、その原因はひとえに“眠い”からです。

 寝苦しい夏が終わって朝晩涼しくなると、寝ても寝ても寝たり無い感じで、夜、どんな些細な文章ですら書き記す気になりません。また暑さに関係なく少し前まで私は不眠気味だったので、その起きている時間をなんとか有意義に過ごそうとキーボードを打ち続けていたというところもあって、もしかしたらこのブログは一時期の私の不眠症の結果なのかもしれません。

 ただ不眠が解消されて残念なことが一つあって、それは夢を見なくなったことです。眠れないのは確かに苦しいですが、うつらうつらと眠りが浅いとシュールな夢を必ず見て、それが意外に楽しみだったりしたからです。

 それで今、眠りが深くなり夢を見なくなった代わりに、手に取ったのがこの本、レイ・ブラッドベリの『十月はたそがれの国』です。

 レイはSF小説、幻想小説の第一人者という紹介のされ方を良くされますが、私は本質的に詩人だと思っています。言葉の選び方が音楽的で、その短編のどれ一つをとっても、読後、とても美しい曲を一曲聞いたような気持ちになります。

 この本には私が世界で一番美しい短編と思っている『みずうみ』という作品が収められていまして、今もそれを読んだばかりですが、その感想はやはり変わりません。

 ページにして僅か10ページ。しかし、その短い物語の中に人が生きて成長していくことの哀しさが擬縮されていて、それはまさしく詩そのもです。

                 ☆

 今、窓から吹く風は涼しくて、かすかに草の匂い。鈴虫の声だけが地球そのものの鳴き声のように聞こえていて、まるでレイの小説のワンシーンのような静けさです。

 ところで、夏の間、気にならなかったのに、秋の訪れとともに月の形が気になったりするのは・・・私だけでしょうか?

 それにしても・・・眠い・・・・・・シアワセ(笑)。 

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1Q84 Book1、Book2読了。

1Q84 BOOK 1 Book 1Q84 BOOK 1

著者:村上 春樹
販売元:新潮社
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1Q84 BOOK 2 Book 1Q84 BOOK 2

著者:村上 春樹
販売元:新潮社
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 たった今、『1Q84』Book2読了したところ。今、この小説に関しては様々な書評が出ているし、謎解き本のようなものもあるようなので、ここではごくごく個人的な感想を簡単に述べようと思う。

 きっと今、誰の胸の中にも世の中が(人間が)すっかり様変わりしてしまったという実感と同時に、それがいつからなのか、何が原因なのかという思いが漠然とあって、この物語はその辺のことを上手く表現しているなと思った。

 1984年ならぬ“1Q84年”とは何か。それは個人が無差別な暴力の犠牲になる可能性の水位が恐ろしく高まった世界のこと、と私は解釈したが、いつが分岐点だったかと問われれば、日本に限って言えばそれは“オウム事件以降”とか“サカキバラ事件以降”ということになるのだろうし、世界的には“9・11以後”と言うことになるのかもしれない。

 きしくも昨日は“9・11”から8年目ということで私はスプリングスティーンの『ライジング』を聞いていたのだが、私はこれを事件に材を得た時事的な作品といった印象を長く抱いていた。が、そこに収められた歌たちが今やすっかり普遍性を帯びて聞こえることに驚いた。これはスプリングスティーンのソングライティングの素晴らしさはもちろんだが、それ以上にあの時の不安や恐怖がすっかり拡散し、常態化し、世界に定着してしまったためであるといった印象が拭えなかった。

 そう、やはり、あの時、世界は変ったのだ。

 主人公の二人が、自らが今までとは全く違う世界に生きていることを知る象徴的なものとして“二つの月”というのがある。かつて『海辺のカフカ』で空からイワシが降ってくるシーンがあったが、数ヶ月前、本当にそれと似たようなことが実際に起きて、私たちはそれを小説の中の“お話”と一笑できなくなってしまった。確かそのシーンに関しては故河合隼雄氏が“現代では何でも起こりえるということの象徴”と言っていたように記憶しているが、私達が今後、空に月が二つ浮かんでいるのを見る日が来ないとも限らない、と今は思える。

 本作は過去の村上作品を想起させる点がいくつもあってその辺を揶揄する人もいるようだが、私は氏が手持ちの駒を総動員して、既視感のある新しい世界、というようなものを見せてくれたようでかえって嬉しかった。

 この小説は誰がどう読んでも、もちろん完結などしていない。今は早く続きが読みたい。氏も大ファンである『スターウォーズ』を例にとるならば、今は2作目の『帝国の逆襲』を見終わったときの気持ちに似ている。ハンソロは石のように固められ、レイアは捕まり、ルークは腕を切り落とされる。

 解決されていない謎が一杯あってそれを知りたいのももちろんだが、これは青豆と天吾の壮大なラブストーリーとも読め、早く二人の愛の結末が知りたい。

 それにしても不思議な話。リトル・ピープルとは何か?空気さなぎとは?

 そしてこの小説のテーマとも言えるヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。『スターウォーズのテーマ』のように聞こえるのは・・・・・・・私だけか(笑)。

 早くBook3が読みたい。

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To say goodbye is to die a littl.

ロング・グッドバイ Book ロング・グッドバイ

著者:レイモンド・チャンドラー
販売元:早川書房
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 うーん。こういう小説だったかな。『ロング・グッドバイ』って。この夏の間、ずっとこれを読んでいたのだが、今回、長年この小説に対して抱いていた印象が少し変った。と言っても私がハヤカワ文庫の『長いお別れ』(清水俊二訳)を初めて読んだのは高校生の頃のことで、その時の感想にしたって、ストーリーがやたら面白いハードボイルド小説の代表作、という程度のものだったが。

 村上春樹訳ということで文章の印象が以前と違うということがもちろん大きいが、なんでも以前の訳は原作の細部をカットした、言わば抄訳といったものだったらしく、初訳が出た1958年当時はミステリーとかハードボイルドといったジャンルの小説はだいたいその雰囲気さえ伝われば良い、みたいなノリだったのだろうとのこと。

 つまりテレビで放送されたカット版の映画を長く愛好していたところを、年月を経た後に思いがけず完全版を見せられたようなことになって、結果、これはアメリカ文学という大きな枠で捉えても、もう十分に古典と言うに相応しい風格を持った作品なのだなとの思いを新たにさせられた。

 またあとがき解説での、この『ロング・グッドバイ』をフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を下敷きにしたもの、とする村上氏の説も読んで目からウロコだった。まさか、と思ったがフィッツジェラルドとチャンドラーを長年にわたり敬愛し続けた氏の考察は見事でおおいに納得させられる。(第一、知らないよ、チャンドラーがフィッツジェラルドの愛読者で、しかも映画関係の仕事をしていた際、『グレイト・ギャツビー』を映画化しようとしていたなんて)。

 簡単に図式化すればフィリップ・マーロウ=ニック・キャラウェイ、テリー・レノックス=ジェイ・ギャツビーということだが、それでいけば村上氏の名作『羊をめぐる冒険』はこの『ロング・グッドバイ』のオマージュでもあるので、それに“僕”と“鼠”の関係を加えると何か鮮明になるものがある。

 これらは他者の中に自らの分身を見てしまった者の物語だ。だからニックはギャツビーのどんちゃん騒ぎを見続けねばならないし、“僕”は“鼠”から送られてきた写真の中の羊を探さなければならず、またマーロウはテリーの無罪のために危険を犯さねばならない。

 だいたいマーロウに関して言えば酔っ払っているテリーを二度助け、その後バーに行って数回ギムレットを飲んだだけで何故そうまでするのか?これまでハードボイルド小説らしく“男の友情”的な文脈で理解しようとしていて疑問に残った部分だが、内なるもう一人の自己のために戦っている、と考えるとその行動原理に理解がいく。

 どんな証拠を突きつけられてもマーロウのテリーが無罪であるとの考えは揺らがない。そして、それは「俺は絶対にこんなことはしない。」と言うのと同じで、もし、そこが崩れれば自分が自分でなくなってしまうのをマーロウは知っているのだ。

 そして、この新訳で大きく変ったものはもう一つあって、それはかの有名な“さよならとは少しの間死ぬこと”という例のセリフ。原文は“To say goodbye is to die a little ”だが、村上氏はこれを“さよならとは少しだけ死ぬこと”と訳した。原文を読む限り、私個人としては村上訳の方が本来の意味に近いような気がするが。

 “~少しの間”と“~少しだけ”。良く考えると相当に意味が違うが、自分の分身とも思える人とさよならを言った経験からすると・・・・・やはり村上訳の方が正しい気がするな。

 ああ、なんだか氏の『羊をめぐる冒険』をまた読みたくなってきたぞ。それに・・・・・『1Q84』。

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二つの“夏服を着た女たち”

Photo_3  今日、ある女性とどういう話の流れからか、最近“婚活”の逆で“離活”というのがあるという話になった。つまり離婚後のよりよい生活のために主に女性が色々と準備するという話。

 もちろんその彼女はシアワセな結婚生活を営んでいる方で、別に深刻な話ではなかったけれど、彼女曰く「もし、旦那に浮気されたらそれは女として自分に至らない点があったのだと、反省する。」とのこと。それを聞いて私は男の習性を説明する言い分としてアーウィン・ショーの名編『夏服を着た女たち』を例に挙げた。

 これはマイクルという男とフランセスという仲睦まじい夫婦が、ある日曜の朝、ニューヨークのワシントン・スクエアの辺りを歩いているところから始る。

 マイクルはニューヨークの街を闊歩する美しい夏服の女たちにいちいち目を奪われ、妻のフランセスは初め「首の骨を折るわよ」なんて冗談を言っているが、段々と会話は深刻になり、やがて素敵な日曜日に暗雲が立ち込めてくる。マイクルは色々と言い訳するが妻の機嫌は中々直らない。そして、会話が袋小路になって、妻が酒場の席を立ちニューヨークの風景に溶け込んだ瞬間、マイクルは妻を“なんてかわいらしい女だろう、なんて素敵な脚だろう・・・・・”と思って眺める、と言う話。

 この小説は多分、女性へのうけは良くないと思う。けど、私は昔からこれを特定の女性(この場合、もちろん妻フランセス)に捧げたラブ・ソングのような話として読んでいる(それとニューヨークという街に対しての)。

 ジョン・レノンの『ウーマン』がオノ・ヨーコという特定の女性に向けて歌われているラブソングが広い意味で全女性に対する感謝の歌になっているのとは逆に、この小説は不特定多数の女性の美しさの中に特定の女性の美しさを発見するというアプローチになっている。男は社会的な生き物なので、あるパーソナルな空間では決して気づき得ない美しさが、広い社会の中で輝くのを見る時、とても幸福を感じるのではないか。その辺のことをショーは上手く描いていると思うが・・・・やはり女性にはうけは悪いだろうな。

 と、ここまで書いて我がスプリングス・ティーンにこの小説とほぼ同じ題名の歌があることを思い出した。例によって訳詩。

   

       ガールズ・イン・サマー・クローズ

  

       街灯がプレッシングアヴェニューを照らしている

       恋人達が手をつなぎ並んで歩いている

       そよ風がポーチを渡り

       自転車のスポークが回る

       上着を着て、俺は家を出る

       今夜は楽しもう、思い切り

  

       夏服の少女達

       夕明かりの涼しさの中

       夏服の少女達が通り過ぎる

       

       子供のゴムボールが音を立て

       街灯の側溝で跳ね返る

       銀行の大きな時計が時を告げる

       家々のフロントポーチの淡い灯りが消えていく

       ダウンタウンの店の灯りは

       夜が更けるにつれ明るくなる

       辛いことがいろいろあった

       でもわかっている これからよくなると

       

       夏服の少女達

       夕明かりの涼しさの中

       夏服の少女達が通り過ぎる

 

       町外れにある旧友フランキーのダイナー

       ネオンサインが輝いている

       まるで魂の救済所の十字架のよう

       蛍光灯の灯りがポップスグリルの上で点滅し

       シャニがコーヒーを運んできて聞く

       「おかわりどう?」

       そして言う「ねえ、ビル、何考えてるの」

       

       彼女は去った、 俺をナイフのように刺したあと

       ねえ、美しい人よ、君は俺を救うことができる

       ただ一瞥するだけで、この魔法のストリートで

       恋は愚か者のダンス

       俺はセンスはよくないが、踊れる足は持っている

       

       夏服の少女達

       夕明かりの涼しさの中

       夏服の少女達が通り過ぎる

       (詩 ブルース・スプリングスティーン  訳詩 三浦 久)

  

  この歌は我等男性陣の思うところ(勝手なロマンティズムと言うべきか)が良く出ている(と思う)。そしてこのPVがまた良いんだ(笑)。貼り付けできないようになっているのでリンクさせときます。見てね。

 

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日本一の夫婦 

Photo  「オスカー・デ・ラ・ホーヤには若い女性ファンが何人いるか知らないが、あれだけ多くの青少年を夢中にさせるという点では、辰吉が世界一だと確信している。」~レフリー リチャード・スチール

 昨夜、テレビで久々に辰吉を見た。辰吉は現在、プロ・ボクサーとしてのライセンスは失効しており、JBC(日本ボクシング・コミッショナー)からは引退を勧告されていて、事実上、もう日本のプロのリングに立つことはできない立場にある。しかし、未だ現役であることを公言してはばからない彼は、日本でダメなら海外でと、この春、タイで復帰戦を果たした。結果は初戦はKO勝ち、2戦目は7ラウンドTKO負けだった。

 昨夜の番組、復帰戦もさることながら、私は彼の奥さん、るみ夫人の言葉に深く感じ入ってしまった。彼女曰く、

「日々、凄いと思わせてくれる人。心から尊敬できて、何度死んで何度生まれ変わってきても、またこの人の嫁になりたい。絶対、誰にも渡さない。」とキッパリ!。あわわあ、ううううう、凄え・・・。

 番組では復帰戦の状況の他に彼の日常も押さえていて、トレーニングをしている時以外の彼は全くの主婦である。料理、洗濯、買い物・・・朝のゴミ出し後は、近所の小学生の登校の安全を見守りながら、まるで用心棒のように(これ以上、強い用心棒はいないだろっ!)子供の列について歩く。

 なんで、そんな過酷なトレーニングの後、買い物行ったり、洗濯したり、家族の食事作ったりするの?との質問に答えて本人、曰く、「それ、なんで歯を磨くの?って聞かれんのと同じ。ただ自然に気持ち悪いからやってるだけ」と、あっさり。ボクサーは健康管理を自分でするので、料理も奥さんより上手いらしい。

 タイでの復帰戦初戦は、凄く格下の相手だった、みたいな悪意の新聞記事を読んだだけだったので良く分からなかったが、実際に映像で見ると、全然そんなことはない。相手は若くスピード感があり、まともに強そうなボクサーで、それを老練な試合運びで辰吉は倒した。

 衝撃的だったのは復帰2戦目で、敵は1戦目よりさらに強力。良く、ボクシング漫画や映画を見て、「こんな殴られ方したら、実際は死んじゃうよ・・・」なんて思って見る時があるが、辰吉はホント、そんな風に殴られていた。そして、7ラウンド、普通に試合が進行していると思ったら、突如、タオルが投げ込まれ、試合終了。立ったまま死んだ弁慶以上に、辰吉は意識の無いまま試合をしている、という状況だったらしくそれでTKO負け。試合後、控え室で、「俺、何ラウンドまでやった?」なんて聞いている・・・(絶句)。

 ↑の、るみ夫人著 『無敵 わたしはリングに上がらない辰吉丈一郎』(株式会社ベース・ボール・マガジン社)は笑って、泣けて、ほんと良い本です。漫画『あしたのジョー』にはドヤ街の人々とジョーとの心温まる交流が描かれているが、こちらのジョーには夫人曰く“一卵性家族”という、辰吉家の4人とその周囲の人々がいる。

 世界チャンピオンに3度なった男。世界を見渡してもそうざらにいるわけではなく、それだけでも十分偉大な男であるのに、今また4度目に挑戦している辰吉。多くはもう、無理だと思っているのだろうけど、昨日、この二人を見て私もまた同じ夢を見たくなった。

 最後に、絶対不利との下馬評を覆し、3度目の世界チャンピオンに返り咲いたシリモンコン・ナコントン・パークヴュー戦直後のるみ夫人の言葉

 「辰吉限界とかやめろっていっていた人にいいたいわ。ほんまに人の人生に口出すな!って。あんたらにいわれてやめる丈ちゃんじゃないけど、もしやめてたら、この日は来てへんねんで。あんたら、その責任とれるんかって」(本書P163~164引用)

 サイコー、ほんとその通りだよな。

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砂漠で出会うコップ一杯の水

クリシュナムルティの日記  /J.クリシュナムルテ [本] クリシュナムルティの日記 /J.クリシュナムルテ [本]
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 最近、仕事終了後、自転車で曲芸のように人波を潜り抜けながら某駅まで東京新聞の夕刊を買いに行く。私が現代日本の作家の中で最高の一人と考える宮内勝典氏の初の新聞連載小説『魔王の愛』を読むためである。で、この小説の“魔王”とは誰であろう、あのマハトマ・ガンジーのことだ。

 ガンジーと言うと、普通、非暴力主義を唱え大英帝国からインドを独立に導いた好々爺としたイメージの偉人ということになっているが、実際はもっと複雑な人だったらしい。宮内氏のエッセイで読んで知ったのだが、ガンジーは東洋人で初めて西洋の法体系の元で弁護士資格を取った人かも・・・という点からも分かるように、東洋の叡智そのもののように思われていて、その実、西洋文明、“近代”の波を深く深く潜り抜けてきた人だ。彼はあの時代にしてすでに地域通貨についても知っていたらしく、それだけでもとても戦略的な人だったことが伺える。

 小説についてはまだ始ったばかりで何も言えないが、毎夕買うこの新聞は紙ではなく、肉とか野菜のような、何故か生もののような気がする。そう、早く読まないと腐ってしまうような。そしてビジネス・トークが行き交う通りを横目にガンジーについての小説読むというのは、当たり前だがとてもシュールだ。

 連載が終了し、本になる時は、きっと加筆・修整が入り、もっとブラッシュ・アップされたものになるかもしれないが、私は今、この形のものが読みたい。その気持ちは砂漠で一杯のコップの水にありつく時のような切実さに似て、それは今の自分が過ごす日常と精神の何がしかの反映でもある。

           ☆           

↑は週末から今週初めにかけて不調をきたし、家で静養中、読んでいたものです。お金にいくら困っても、どうしても売れないものと言えば、私の場合、CDで言えば『ジョンの魂』、本でいえばまずこれで、かれこれもう十五年近く、繰り返し読んでいて、また読んだ。これも『魔王の愛』同様、生ものの本だが、きっと未来永劫、いつまでも腐らない。訳は宮内氏で、彼はインド放浪中、この聖者の話を聞く機会を得、帰国後、本書の翻訳の話が来た時は運命を感じたと言う。そして、そのように臨んだ仕事だけあってとても美しい文章、名訳だと思う。

 私の仕事場で先週インド一周の旅に出た青年がいる。旅立ちの日の朝、彼から私のPCにメールで長い詩が届いた。

 彼は彼のガンジー or クリシュナムルティに出会えるだろうか?

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あらかじめ踏みにじられているイノセンス

対岸の彼女 (文春文庫) Book 対岸の彼女 (文春文庫)

著者:角田 光代
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 陽気で優しく、自信に溢れ、、テキパキと仕事をこなし、誰からも愛されるキャラクターに出会うと、多くはその人のことを世の悪意や醜さといったものと無縁でいられるシアワセな環境ですくすくと育ってきた人と思うのではないだろうか。それはある種の幸運によって保護され続けたイノセンスの結果なのだと。

 この小説の主人公の一人小夜子が始めて葵に会った時もきっと同様に思ったに違いない。小夜子が娘を遊ばせる際の“公園デヴュー”もおぼつかない内気性格なのに対し、葵は同じ35才でありながらさばさばとした性格で、自信に溢れたヴェンチャー企業の女社長。経済的な理由より自分の内気な性格をどうにかしたい一心で出かけた面接先で小夜子は葵と出会う。

 この小説は奇数章に小夜子が葵の会社で働き始めてから以後の物語が、偶数章に葵の高校時代の物語が交互に語られる。そして偶数章で語られる葵は奇数章の彼女とは似ても似つかない長年いじめに合った経験を持つ繊細で内気な女子高生である。中学を卒業し、これを機にと家族で越してきた群馬県の高校で、葵は魚子(ナナコ)という名の少女と友達になる。魚子(ナナコ)は始まりから、またいじめに合うのではないかと身構えている葵の懐に屈託なく飛び込んできては葵を驚かせる。

 いつも思っていたのだ。だれか、気持ちの優しい、顔立ちの整った、クラスでも人気者の女の子が、自分と仲良くしたいと言ってくれ、葵が無理に誘わずともこうして遊びに来てくれ、笑いかけてくれる、そんななんでもない光景を、葵は今まで何度も何度も何度も夢想してきたのだった。テーブルにつく童顔のクラスメイトを葵はまじまじと見、ふいに背中を向けて台所へかけこんだ。泣いてしまいそうになったのを、見られるわけにはいかなかった。(本書P45から抜粋)

 そして、別のシーンで葵はナナコにこんな風に言う。「いいなあ、ナナコは。こわいことがなくて。きっとナナコってさあ、すっごいしあわせに生きてきた人でしょう。人に嫌われたこととかないでしょ。兄弟喧嘩したこともなくって、おかあさんはすごくやさしくて、なーんでも思い通りになっちゃって。」と。

 しかし、この二人の「イノセンス」はあらかじめ踏みにじられている。友達と言いつつ葵は、自らがいじめに遭った経験から、誰とでも仲良くできる八方美人的な魚子(ナナコ)を、やがていじめの対象になるのではないかと読んでいて、その時、自分が巻き添えになるのを恐れて皆がいる前では決して彼女に声をかけない。二人はいつも学校から2、3離れた駅で待ち合わせしていて、そんな葵の打算を魚子(ナナコ)は軽く許している。だから二人が会っている時の、何処にでもいる女子高生同士のような会話やシーンは、踏みにじられながらも僅かに残った「イノセント」な部分をなんとか捻出し持ち寄った時間でもある。

 二人は何よりもこの「普通の」女子高生的な時間をかけがえなく思い、それをいつまでも持続させたくて夏休みにペンションでのバイトに出かける。そして一夏やり遂げた後の家へ帰ろうとする駅のホームで、突如、魚子(ナナコ)の「イノセンス」もまた大きく踏みにじられていたことが露呈する。「帰りたくない」とナナコは泣く。弾かれたように逃避行を始める二人。そして、やがてある事件が起きるー。

               ☆

 この小説の宣伝文句を見ると大体が「勝ち組」と「負け組」の女同士の間に友情は成立するか?といった類の紹介がされているが、これはそんな小説ではない。これは人が人に出会うということの切なさを描いた小説である。本当の出会いというのは人の内部を大きく変化させるが、同じ場所で同じものを見、束の間の幸福を過ごす少女達は、だが、互いが相手に変化をもたらす存在であることに気づかない。二人が起こしてしまう事件は互いの変化があるレベルで一致し共鳴した結果であり、その変化はそこで交差した後、どんどんと距離を伸ばし、やがて別れがくる。

 奇数章で小夜子が、葵がかつて世間を騒がした事件の当事者と知って、その後、相手の少女とはどうなったのかと質問すると、葵はおもしろおかしく語り、その後一度も会っていないと言って小夜子を失望させるが、しばらくして、小夜子は気づく。

 なぜそれきり会わなかったのか小夜子はふいに理解する。連絡しなかったのではない。子供だからすぐ忘れてしまったのではない。葵ももうひとりの女の子も、恐かったのだ。同じものを見ていたはずの相手が、違う場所にいると知ることが。それぞれ高校を出、別の場所にいき、まったく異なるものを見て、かわってしまったであろう相手に連絡をとることがこわかったー。(本書313Pから抜粋)。

 事件後、葵の父の計らいで印象的な再会を果たした後、葵とナナコは二度と会うことは無い。しかし、葵はその後もナナコという少女に出会った痕跡を自らの内に抱え生きていく。ナナコはどうだったのだろう?と私は思わずにいられないが、その後のナナコに関してはこの小説には一切触れられていない。ただ、偶数章の「アオちん」が奇数章の「葵」に生まれ変わるようなシーンとして、彼女が大学時代旅したラオスの路上での出来事が書かれているが、深読みすれば、その時、葵はナナコになったのだと私は思う。

 奇数章の最後、一度、葵の会社を辞めた小夜子がもう一度葵とやり直そうとする場面、雑然とした部屋を片付ける小夜子の目に唐突に飛び込んでくるナナコの丸文字の拙い手紙は残酷でもあり、美しくもある。

それは再現不能な過去の関係の遺物でもあれば、現在の葵の強さが、かつての親友となんとか持ち寄ったイノセンスの果てにあることの証でもあるからだ。

 かつてのナナコのような葵の亀裂を、かつての葵のような小夜子が覗いている。しかし、二人の出会いが互いにもたらした変化に共鳴しているのは、この場合、青臭いイノセンスではない。

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カッコいいイスラエルの日本人~壁と卵

村上春樹「ねじまき鳥のクロニクル」ロシア語 村上春樹「ねじまき鳥のクロニクル」ロシア語
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 村上春樹はポール・サイモンに似ている、と言ったのは村上龍である。大昔、雑誌の対談か何かで読んだ。そうかな、私はそんなに似ているとは思わないけどな。・・・・雰囲気は共通するものがあるのは認めるが。

 でも、一番似ているのはその作品世界の方で、いつかポール・サイモンの詩をまとめて読んだら、なんだか村上春樹の小説を一冊読んだような気分になったことがある。

 それでこのエントリーの題を今考えた。“カッコいいイスラエルの日本人”。以前、このブログでポールサイモンについて“カッコいいアフリカのアメリカ人”というのを書いたのでそのセルフ・パクリです。

 村上春樹のエルサレム文学賞受賞スピーチを今朝、ラジオで聞いた。ラジオのパーソナリティは「イスラエルのガザ侵攻に対し国際的に非難が高まり賞を受けることに批判もある中、氏は受賞し、そして大統領初め各要人が居並ぶ中、その授賞式のスピーチで堂々とイスラエルを批判した。」というような説明をした。そして、そのスピーチの内容を要約して「体制を“壁”そして人間を“卵”に例え、私はいつも“卵”の側に立つ。」といった詩的なものだったとも。

 昼休み、私はこのスピーチの内容の全文を知りたいと何誌か新聞をあたったが、今朝の新聞には記事すらなく(私が見つけられなかっただけかもしれないが)、英字新聞に僅かに事のあらましが紹介されているだけだった。それで“壁”と“卵”のイメージを脳裏に残したまま、今日はほぼ一日中、村上春樹について考えていた。

 今、ネットで受賞スピーチの全文を読んで、ガザ侵攻に対してイスラエルを非難した、と言うのとはちょっと違うと思った。もちろん、そうしたことを意図したものであるのも確かだが、これはもっと広義な意味で冷徹なシステムと、その中で生きる人間の脆弱さ、かけがえのなさ、またその神性についての言葉だ。そしてそれはそのまま彼の作品世界の意味を端的に表しているものでもあって、見事だと思った。

「仮に壁が堅く高く、卵が潰えていようと、たとえどんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていようと、ぼくは卵の側に立ちます。」

 やば。この部分を読んでちょっとウルッときた。何故ならその言葉に“風三部作”の「僕」や「鼠」、『ノルウェイの森』の主人公と直子さんとミドリさん等、その他たくさんの氏の小説の登場人物たちを思い出したからだ。

 今、村上春樹って世界中で読まれているんだよなあ。世界で一番読まれている作家といっても過言ではない(アフェリエイト探したらロシア語版ってのがあった。装丁が好みです、ハイ。)で、日本人はそのことを過小評価しすぎていると思う。

 三島も大江も川端もそれぞれ世界的に有名だが、こんな風に読まれたことなど無い。日本人が紡いだ物語がこんなに世界中で読まれるなど、これは有史以来初めてのことなのだ。そして、私達は何故、彼の作品がこんなに世界中で読まれるのかちょっと考えてみた方がいい。

 何かの代表の如く言われるのを最も嫌う氏のことだから、「同じ日本人として」、という形容詞は省くが、やはり今日は一日なんだか誇らしかった。この気持ち、イチローがシスラー越えのヒットを打った後、彼が真っ直ぐその家族に握手に行ったのを見た時以来かも。

 村上春樹エルサレム文学賞受賞スピーチ、まだ読んでいない人、こちらを。 

 この毅然とした静かな怒りはポール・サイモンの『リズム・オブ・セインツ』収録の『クール・クルール・リヴァー』の歌詞の主人公のようだ。

 やっぱ、ポール・サイモンって村上春樹に似ているなあ。 あ、逆か?

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ナショナル・ストーリー・プロジェクト~作り話のような実話

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 あるラジオ番組のホストが作家に頼む。「月に一回出ていただいて、その都度新作を読んでくれませんか?」と。作家は断る。いくら自分でも番組のために毎月物語を一つづつ書き上げるなんてそうそうできることではないと。しかし、帰宅後、作家が妻にその依頼について相談すると妻は言う。

 「あなたが物語を書く必要は無いのよ。いろんな人にそれぞれ自分の物語を書いてもらえばいいのよ。リスナーの人たちから送ってもらって、一番いいやつをあなたが番組で朗読するのよ。それなりの数が集まったら、ひょっとするとすごい番組になるかも。」

 こうしてできたアメリカNPR(全米公共ラジオ)の番組『すべてを俎上に~週末版』のあるコーナーからこの本は生まれた。作家はポール・オースター。

 視聴者に物語を送って貰う際の条件として、作家は言う。

 「物語は事実でなくてはならず、短くないといけませんが、内容やスタイルに関しては何ら制限はありません。私が何より惹かれるのは、世界とはこういうものだという私たちの予想をくつがえす物語であり、私達の家族の歴史のなか、私たちの心や体、私たちの魂の中で働いている神秘にして知りがたいさまざまな力を明かしてくれる逸話なのです。言いかえれば、作り話のように聞こえる実話。大きな事柄でもいいし小さなことがらでもいいし、悲劇的な話、喜劇的な話、とにかく紙に書きつけたいという気になるほど大切な体験なら何でもいいんです。」

                  ☆

 この本を読んで、私が真っ先考えたのは、ここに収められている全ての物語は日々私達の日常の中で起こっている出来事と大差無いということだ。悲劇にしろ、喜劇にしろ、またシュールで不可思議な話、恐ろしい話、感動的な話、詩のように美しく静かに胸に染み入ってくるような話など、何につけ全ては私達の日々の暮らしの中で、今、この瞬間にも絶えず起きている。

 しかし、問題はその出来事や遭遇した場面(シーン)から、人がそれを物語としてどう感知し、惹いてはその感知した物語から何を感じ取り、自らの内面にどう作用させ生きる(た)かということだ。

 本書は「動物」「物」「家族」「スラップ・スティック」「見知らぬ隣人」「戦争」「愛」「死」「夢」「瞑想」と、10からなる章に分かれていて、収められている物語りのどれもが面白く味わい深い。そして、どんな些細な話にもその時代時代の影が色濃く反映されていて、人間の営みは望むと望まぬに関らず、細部に至るまでそこから逃れられないのだとも感じた。

 この本には後日談があって、それは本書の発売日が2000年9月13日だったということに関る。あの同時多発テロが起きた2日後である。普通、アメリカでは人気作家が新作を発表すると、その本を持ってプロモーションのため全国の書店を回るのが常のようであるが、そこでは普通、著者による朗読、質疑応答、サイン会などが行われるところを、ポール・オースターは各地にいるこの本の物語の書き手達を呼び寄せ、聴衆の前で各々に朗読してもらう会に切り替えたという。

 アメリカが正義と報復の名の下に一つのイデオロギーによって染め上げられ戦争に突入しようとしている正にその時、このような個人が大切にしている小さな物語に人々が耳を傾けるといったようなキャラバンが行われていた事実を知って私は感動した。

                                   ☆

 さて、今年も残すところあと僅か、今年は後半、突然始まったかのような世界的な不況の波を受けて、あらゆる風景が短期間のうちに激変してしまった感がある。私の身近な所で言えば、仕事場の人手が足りなくて求人を出しても良い人材が集まらず苦慮していたところ、いきなりの面接ラッシュとなった。私はこの現場を始めて一体何人の人と出会い、話したのだろう。面接は通り一遍の質疑で終わる場合は少なく、単なる手続き上の話から発展して、図らずも個々の物語に触れてしまう場合もある。皆、この不況の煽りを受けて来る人が多いので、“時代”から逃れ得ようの無い話が多いのは当然だが、中には面接していて感じ入ってしまう話もあって、面接官としては全く失格である。しかし、雇用した際にも、先日エントリーのポーグスの『ニューヨークの夢』ではないが、どんな人もそれぞれに小さな物語を抱えて生きてるのだということだけは忘れないようにしようと思う。

 今年のクリスマス・イブからクリスマスにかけて、私に起きた出来事はここでは書けません。悲しい話が一つ。可笑しく、でも人の優しさに触れるような話が一つ。

                ☆ 

 本書『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』にもクリスマスに纏わる話が幾つかある。せっかくなので私が一番好きな話をかいつまんで一つ。

                ☆

 アラスカ州アンカレッジに住むドン・グレーブスさんの話。題は『ファミリー・クリスマス』。

 1920年代、彼の家庭は不況のため父の商売が破綻、街は何処を探しても仕事は無く求職はゼロ。家にツリーはあるが飾りも無く、食事も乏しく、もちろんプレゼントもなし。クリスマス・イブの晩は家族皆が悲しい気持ちで寝床に就いた。

 しかし、あくるクリスマスの朝、信じられないことにツリーの下には山と積まれたプレゼント。その信じられない出来事に家族中が歓声を上げる。プレゼントを開けると、

まず母には何ヶ月か前に失くした「古いショール」、

父には柄の壊れた古い斧、

妹には前に履いていた古いスリッパ、

弟の一人にはつぎの当たったズボン、

自分には何ヶ月か前に食堂に忘れてきてしまった帽子、だった。

 皆は包みを開けられぬほど大笑いした。しかし、一体誰が?

それはもう一人の弟モリスの仕業だった。彼は何ヶ月も前から、失くしても騒がれそうに無い品を見つけては、こつこつ隠していたのだった。そして、ドンさんにとって、それが生涯最高のクリスマスだったという話。

 

 皆さんは、どんなクリスマスを過ごされましたか?

 

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