「母をお願い」を読んだ。

 世界30カ国以上で翻訳されたという韓国の大ベストセラー小説「母をお願いー엄마를 부탁해(オンマルプタケ)、英題 Please Look After Mom 」申京淑著ーを読んだ。息子を訪ねる途中のソウル駅で行方不明になった母を探す家族の物語。第一章は作者自身を投影したと思われる長女の、第二章がこの母が誰よりも宝物のように育てたという長男の、第三章は決して褒められた亭主ではなかった父の・・・というように、各章ごと様々に視点が入れ替わり母への追想が語られる中、遂には誰も知らなかった母の秘密やもう一つの人生が明らかになっていく。

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 ドラマチックな構成もさることながら、貧しさゆえ字の読み書きもできず、ただただ自らが育てた野菜や家畜で子供たちを愛し抜き、そのため時には子供達からさえ鬱陶しいがられ、蔑みの眼ですら見られてしまうこともあったこの母の描写と、子供たちの後悔を含む小さなエピソードのそれぞれにすっかり泣かされた。圧巻の最終章では誰もが母と再会する(この小説の、と言うのではなく)仕掛けにも驚いた。

 作者申京淑は去年、三島由紀夫の「憂国」を盗作したとの問題で大騒ぎになったが、事の真偽はさておき、自分はこの作家の代表作「離れ部屋」を読んで以来のファン。騒動の顛末として、本国で文学賞の審査委員辞退、作家活動自粛ということになってしまったが、僕はもっと彼女の小説を読みたい。

 読書の秋、また韓国の小説ってどんなだろ?という興味からでも是非。母親との関係に悩む人、もう故人の人、どちらにもお勧めです。自分もこれを読んで、この彼岸、亡き母に再会した。

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「カクテル」を読んだ。

Photo_3  主演のトム・クルーズが出演したしたことを悔やむ程に酷い映画だった「カクテル」。でもその原作は世紀の傑作と言われる代物であることをあなたはご存知だろうか?

 大昔、村上龍のエッセイで激賞されていたのを読んで以来、頭の片隅にずっとあり、書店・古書店に行く度になんとなく気にしていながらも見つけることができなかった小説。で、先日、ずっとあきらめていたのをYouTubeでビーチボーイズの「Kokomo」を見て思い出し、Amazonで探したらとあっさりとあった。そう、この「カクテル」は今、原書も翻訳も絶版という、増々レンジェンド度を高めている読み物なのだ。最低なもの(映画の方)が世に残り、最高なもの(小説の方)が消えていく・・・これも世の常なのかと憂いつつも、この休日はこれを読み耽っていた。圧倒された。

600ページ越えのピカレスク(悪漢)もの。そして、これ、作者ヘイウッド・グールドもさることながら、芝山幹郎氏の翻訳が凄い。原作のパワフルな言語遊戯のバーを軽々と(無論、軽々の筈はないですが)越えていき、読む者を泣かせ、笑わせ、酔わせ、欲情させ・・・・そのものズバリの俗語、猥語満載であるのにも関わらず作品全体に品格すらも備えさせると言う離れ業。酒をここまで美しく書いた本はない、とAmazonのカスタマーズレヴューにあるが、御意。村上龍はエッセイで「かのヘンリー・ミラーをしのぐ文体・・・」と言い、あとがきで芝山氏はこれを文学とは言わず「高級娯楽小説」と定義しているが、いずれにせよ確かにヤバイものをキメタ時のような特権的な読後感で・・・クラクラする。

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 ネット上で本書を検索すると出てくるが、如何せんどれも画像がないので写真をアップしておく。↑の最初が原書で次が翻訳。どうせなら原書のようなデザインにして欲しかった。ネットでこっそりと、またお近くの古書店などで見かけたら迷わずゲットされたし。もし所持していることが見つかったり、読むのが止められなくなったりしても・・・病院に送られたり、逮捕されることは・・・・・・ありません。

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「ジョン・F・ケネディはなぜ死んだのか~語り得ないものとの闘い」を読んだ。

Photo_7  故遠藤周作はその著書「イエスの生涯」で、ユダヤ社会において初め救世主と目され、その後、期待外れ(あるいは裏切り者)だと蔑まれ、やがては十字架に架けられる無力で弱い人間としてイエスを描出して見せた。そして本書「ジョン・F・ケネディはなぜ死んだのか~語り得ないものとの闘い」(同時代社 ジェイムス・W・ダグラス著 寺地五一 寺地正子訳)の読後、私が想起したのはこのイエスの姿である。

 無論、著者は自分がカトリックの神学者だからとは言え、ケネディにイエスを重ね彼を神格化しようとしたのではないだろう。ただ、紛れもない“冷戦の戦士”だった彼がキューバ危機を契機に対話路線へと転向し、敵であるフルシチョフやカストロとさえ対話への門戸を開き(開こうとし)、そしてベトナムからの撤退を指向するに至って、裏切り者、あるいは(冷戦下における)文明の破壊者としてCIAと軍産共同体の共謀によって砲火を浴びる様は、その展開自体、多分に福音書的だ。本書が凡百あるケネディ本と一線を画するのは正にこの点に尽きる。

 もちろんこれは宗教書ではなく、長い年月をかけての資料分析からなるJFKの死の真相に迫ろうとした一書である。700ページからなる大著。その点、内容はスリリングだし、資料の読みも深い。特に主人公であるケネディと同量のページが割かれているオズワルドについての考察は一級のサスペンス以上に読ませる。そしてここでも個人的には、真相はどうあれ、この“ケネディが好きだった”というオズワルドは、あの「ユダ福音書」でのユダの役回りとして描かれているように思えてならない。

 JFK法が施行され、以前より多くの資料が明らかになってきているとは言え、本国アメリカではケネディ暗殺の真相について語るのは未だタブーの領域にあるらしい。しかし、特に1991年公開のオリバー・ストーンの映画「JFK」公開以降、ケネディ暗殺はオズワルドの単独犯行によるものではなく、CIAと軍産共同体による共謀であるという説は、多くの人にとって暗黙の了解になっている(と思う)。そして、本書はその「暗黙の」という点が未だに世界に平和がもたらされていない大きな理由だと言っている様でもある。

 原題にある“UNSPEAKABLE”とは言葉にできないほど邪悪で巨大な勢力を指す、著者が敬愛するカトリック作家トーマス・マートンの造語。この“UNSPEAKABLE”をあぶり出し、可視化すること。かつてあのマハトマ・ガンジーはそのサティア・グラハの実験の中で神学の言葉を逆転させ「真理が神である」と語ったという(P23より)。ケネディの死の真相を執拗に追及することの意味。それは政治的な問題である以上に、私たちの内側の問題なのかもしれない。

 本書は全部で六章から成るが、著者あとがきの後に JFKが1963年6月10日にアメリカン大学卒業式に行ったスピーチの全文が添えてある。当時、共産主義勢力からは驚きをもって迎えられ、逆に西側社会、特に本国アメリカでは黙殺され、彼の暗殺の引き金にもなったと言われるスピーチだが、これを読むともしかしたらあり得たかもしれない世界を思って切なくなる。と同時に、見渡すともはや夢物語でもあるかのような世界平和への思いが呼び覚まされるような気もする。あたかも上述した遠藤の著作の中でダメな弟子たちが十字架からのイエスの言葉を聞いて、ようやく彼の真意を悟り、その後、使徒となるように。

 やはりこれは現代アメリカ政治史の形を取った新しい福音書だと思う。

  http://www.amazon.co.jp/372/dp/4886837719

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村上龍の「半島を出よ」を読んだ。

51ble3jhgql_2村上龍著「半島を出よ」を読んだ。http://charm.at.webry.info/200905/article_10.html

これほど巨大な破壊の場面をこんなに緻密な描写で読んだのは初めて。戦争でも自然災害でも原発事故でも、無関心な人に向かって「もっと想像力を働かせろ!」のように言う人が時々いるが、それらは人間の想像力をはるかに越えた事象なので、想像するなど不可能なのだ。

 唯一分からせるにはリアリズムに徹した緻密な描写による大きな物語が必要で、この小説はその一つだと思った。上下巻の大著。

 氏の代表作の一つ「コインロッカーベイビーズ」を含む自選小説集第3集の副題は確か"破壊による突破"だったが、読み終わって、この「半島に出よ」に描かれる破壊が何を突破したのかをずっと考えている。そして本当の危機に立ち向かえる人間とはどういう種類の人達なのかということも。

 村上龍のシステムに対する憎悪の深さに脱帽。発表されたのは2005年で、読書中、もっと早くに読んでおけばという気もしたが、読み終わって今で良かったと思い直した。何もかもが終わった後に静謐な二つの章が用意されるが、私たちは今その中を生きているのだから。17才の時に読んだ「コインロッカーベイビーズ」のキクとハシとアネモネをずっと忘れなかったように、自分はこれからこの「半島に出よ」のキム・ヒャンモクという女性を忘れないと思う。

 この「半島を出よ」は某大型古書店で上下巻合わせて200円で買った。単行本。単行本は場所を取るからという理由なのか文庫本より安い。今日、新品で持っていたくて文庫本版を手に取ったら、あとがき解説が島田雅彦で、文中、故網野善彦氏が紹介していたこの地図が取り上げられていた。この列島がまだ「日本」ではなかった頃、何が起きていたのか。そして本当はこれからどうするべきなのか。

 想像力が刺激される。

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「きのね」~天からの合図

Photo_9 ここ数年、正月は長い小説を読んで過ごすのが通例になってしまった。今年は宮尾登美子の「きのね」。名優と謳われた第十一代市川團十郎とその妻をモデルに書かれた小説。評判通り、面白さに昼夜問わずのめり込み、上下巻を一気に読んでしまった。

 第十一代市川團十郎と言うと、2年前に亡くなった十二代目の父で、当代海老蔵の祖父。で、主人公・光乃は当然、その母、祖母ということになる。女中の身から梨園の妻となり、生涯、陰で十一代目を支え続けた女性。小説的な誇張はあるものの書かれている出来事はほとんど事実だという。その上自分は中川右介著「歌舞伎 家と血と藝」(講談社現代新書)をそばに置いて、変名で語られる登場人物が誰なのかを一々確かめながら読んだのでフィクション的な味わいもあった。

 フィクション、ノンフィクションを見定めするように読む醍醐味も自然出てくるが、恐れ入ったのが「聖母子」の章。

 低迷していた雪雄=治雄(十一第目の本名)も戦後、爆発的な人気を得、世間的には独身で通しているため、産院に行くのを躊躇う光乃が一人便所で逆子を出産する場面。これ、本当だろうか?下巻の壇ふみのあとがきによると、宮尾登美子はこの小説を新聞連載中に、出産直後に十二代目の臍のを切ったという産婆さんに会うことができ、取材したというから・・・事実に近いのだろう。鳥肌が立った。

 生真面目ゆへ不器用で癇癪持ちの雪雄と、運命に翻弄されながら時に雪雄の暴力にさえひたすら耐え忍ぶ光乃の関係は今なら不可解に映るだろうか。しかし、その果てにある男女の宿縁、離れられない二人のその繋がりの強さを不思議なものを見るように読んだ。初め、主従の関係で共に暮らしていた二人は、文字通り病に遭っては血を分け、戦火を、貧困を、また世間の目をかいくぐり、封建的な歌舞伎界、ひいては昭和の時代を生きぬく。

 鋭利な感性とエキセントリックな面を併せ持つ当代海老蔵と、とてつもない忍耐と大きな包容力が魅力だった故十二代目。海老蔵は隔世遺伝で祖父ゆずり、十二代目はこの母の影響・・と勝手に納得した。

 まだ女中奉公の身だった頃、雪雄に「どんな芝居が好きなんだい?いってごらん。」と聞かれ、「きのねでございます。芝居が始まる前の、あの音を聞くと身が引き締まります。天からの合図のようでございます。」と答える光乃が愛しい。きのねとは芝居の始まりと終わりに鳴るあの拍子木のこと。この答えを面白がった雪雄は光乃を「きのね」と綽名する。

 今は年開けのきのねが鳴ったところ。正月に相応しい・・と言いたいところだが、言うにはあまりに余韻が大きい物語。今後、舞台を見る目が変わるだろう。海老蔵を見たくなった。

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「コルシア書店の仲間たち」を読んで

Sugaatuko_2 過去を回想して文章を書くとき大事なのは、その間に横たわる歳月から対象となる事柄や人々をどれだけ客観視できるか、または逆にそれらに対する熱をどれだけ持続できるのかという、一見、相反した思いの両立ではないのかと、先頃、須賀敦子の「コルシア書店の仲間たち」を読んでそんな事を考えた。

 須賀敦子は1950年代にイタリアに留学し、結婚を機に長くかの国に暮らした人である。日伊間相互の文学作品をそれぞれの言語で素晴らしい翻訳をし、その後、帰国して62歳の時、デヴュー作の「ミラノ、霧の風景」を書いた。そして、ほぼこの一作で日本の文壇の中に確固たる地位を築いた。

 僕が初めて彼女の名を目にしたのは池澤夏樹個人編集世界文学全集に納められたナタリア・ギンズブルグの小説の訳者としてだ。「モンテ・フィルモの丘の家」。今、気づいたがこの小説を起点にすると須賀の「コルシア~」はその変奏曲のようにも思える。誰もが経験するであろう、ある時代にある理想を持って一つの場所に集まった人々の出会いと別れ。愛すべき場の消滅。一方はそれを小説として作品化し、一方は自らの経験を元に極上のエッセイにしあげた。そして、須賀が過去を題材に作品を残そうとした時に小説ではなくエッセイという形にこだわりがあったことについては、文藝別冊の彼女の追悼特集号にこんな一文がある。

 「そしてそのディテールこそが美しさの本質で、かつ、人間の経験のもっとも基本的なものであることを証明している。<中略>そして、この生活のおけるつまらないほんの小さな経験こそが、人生を紡ぎだす一本一本の糸だというのに、小説というものの中では実におざなりにされてしまいがちなものでもある。」(文藝別冊 『追悼特集号 須賀敦子 霧のむこうに』~P125「声を見つけるのよ」 青柳祐美子より)

 また彼女の訳業には詩もあって、日本ではあまり知られていないウンベルト・サバやジョゼッペ・ウンガレッディ等の詩人の作品が彼女の日本語で読むことができ、そうした経験も彼女がエッセイを手掛ける際には血肉化されたものと想像する。小学校五、六年のころから詩に興味を示したという彼女は、だが翻訳者となり、その後、人生の最後の十年に集中してエッセイを書いた。僕には「つまらない小さな経験こそが人生を紡ぐ一本の糸」と言う彼女のエッセイは長い詩のように思える。

 フォークシンガー友部正人の歌の歌詞に「今まで出会った人一人一人がぼくにとっての歌かもしれない」という一行がある。「コルシア書店の仲間たち」も当時の仲間一人一人について章立がなされ、それはあたかもその一人一人が詩の言葉のようだ。年月の錬磨を受け冷静に対象化され、それでいて持続された熱(共感、愛)によって本の中に適切に配置され語られる仲間たち。

 過激化した学生運動の中で、それでも若者たちの側に立ち続けたコルシア書店は当局の通告によりついに終わりを告げる。あとがきの最後の言葉は切ないが、自らの青春についてこうした回想を持てる筆者を誰もが羨ましいと思っていて、彼女の書き物が今静かに読者を増やし続けている理由の一つを僕はそんな風に考える。

 ‘それぞれの心にある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、一途に前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きねばならない孤独と隣り合わせで、人それぞれ自分の孤独を確立しないかぎり、人生ははじまらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
 若い日に思い描いたコルシア・ディ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。

 (『須賀敦子全集第1巻』河出文庫 P374より)

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ディック・フランシスの競馬シリーズ~秋のミステリー 

Photo_2  競馬を覚えて良かったと思うことの一つにディック・フランシスの競馬シリーズがある。

 高校から大学にかけての一頃、意味もなくロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズが流行った事があった。それで良く書店のハヤカワ・ミステリー文庫の書棚に向かったが、その時、無愛想に何やら漢字二文字を表題にした作品がずらりと並んでいるのが嫌でも目に付いた。

 帯を見ると“競馬ミステリー”とあったので、これは競馬に詳しくない人間には楽しむことのできない特殊な読み物なのだろうと、なんとなく最初から度外視してしまった。以来、長らくディック・フランシスの小説は自分にとって全く無縁なものとしてあり続け、僕は当時の多くの人達と同じようにスペンサーシリーズを読み、それ以外のロバート・B・パーカーの作品を幾つか読み、そして、飽きた。

 ディック・フランシスの小説を手に取ったのはある競馬雑誌で彼の経歴を見て興味が沸いたからだ。自身が元騎手であり、戦時中はイギリス空軍の戦闘機や爆撃機のパイロットだったということ。そしてその後、書き始めた小説は43作のどれもが外れなしの質の高いものだという事。
 
 そうか、あの“漢字二文字”の小説群を書いていた人はそんな人だったのか。保険会社のオプで考古学者で元SASSの教官でもあるという、まるで漫画「マスター・キートン」みたいな人だな、と僕は思った。一流の騎手が引退後、小説を書いたらそれがどれも傑作だなんて、武豊が引退後、小説を書いたら東野圭吾だった・・・みたいなことだろうか。ありえない。最初に手にとったのは「興奮」。その後は発表順に読んでいたが中々思うような順で古書店で見つけられず、ついには順不同でも読むものに迷うときは必ずディック・フランシスの小説を手に取るようになった。
 
 このシリーズは例えばチャンドラーのフィリップ・マウロウやロバート・B・パーカーのスペンサーのような特定の登場人物というのがいない(例外は「大穴」「利腕」「再起」のシド・ハーレーと「侵入」「連闘」のキット・フィールディング)。主人公の職業もワイン商、宝石所、画家、ガラス職人、映画監督、俳優、ビール工場の経営者、銀行家等々その都度様々で、それぞれの世界への取材も確かでどれも読ませる。競馬は背景としてあって、どの物語にも関係しているが競馬を知らない人でも楽しむになんら問題はない。
 
 
 だが、僕は“まだ23作ある”と徒労感を覚えるというより“まだ23作も読める”という喜びの方が大きい。確かに読んだことのない面白い小説がこの世にまだ23作ある、というのを知っているということは素晴らしいことじゃないか。
 
 何が一番か?という話に良くなると思うのだが、全部を読んでいないのでまだ分からない。よく言われるように初期の作品群はどれも間違いなし、と言った感じだが、それ以外で言えば僕は意外なところで「骨折」を挙げたい。これはろくでもない親の元に生まれた青年の成長譚だがテーマはロバート・B・パーカーの「初秋」と同じ。ラストでホロりとさせられる。それと「奪回」。ヨーロッパで最高の女性騎手が誘拐され、その誘拐犯と誘拐対策会社(そんなものがあるのか)の派遣スタッフとの白熱の頭脳戦。読んでいて夜、寝れなくなった。
 
最近、馬券は買ったり買わなかったりだが、見るだけなら毎週見ている。買ったとき外れて、買わないと当たるというのはいつものことだが、出走前のわくわくした気持ちとレース後の例の虚脱感。競馬はミステリー小説を読むのに似ていると思う。
 
 競馬場を去る時、僕は作家ディック・フランシスが元騎手だったということが意外なことではないといつも思う。彼は初めから一貫してミステリーの作り手だったのだ、と思えば。
 
 秋は競馬の季節。そしてミステリーを読む季節だ。
 
 
      第四コーナーから最後の直線で
      ついに明らかになるミステリーの結末に
      群集は叫び、驚愕し
      やがて誰もが
      巨大な寂寥に散乱する
      一個の漂流物になる

                                  (To Vodka)

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たましいのあん

Photo_3 前回の記事のような事もあってここのところ思いがけず和菓子の味について云々する機会が多い日々を過ごしているが、誰に聞いても、結局、最後は“あんの美味さ”というところに話は落ち着く。

 それで題名に惹かれ通勤時に読もうとふと手に取ったのは去年出た小説『あん』。著者は元叫ぶ詩人の会のドリアン助川。和菓子屋を舞台にした下町人情物語風のものを予想していたら全然違って、それどころか去年の今頃、自分が携わっていた仕事に真っ直ぐに繋がっていて吃驚した。

 http://www.poplarbeech.com/sp_pickup/ann/

 決して外には出られない場所で50年あんを作り続けた老婆と、義理でどら焼き屋になった前科のある男。巻末の著者プロフィールを見ると日本菓子専門学校通信教育過程卒とあって、そのせいか登場人物達があんを作る場面にリアリティがある。

 主人公が最後に着想したどらやきを一度食べてみたいと思った。そして老婆の故郷、桜の花びらを塩漬けにする風習がある川のきれいなところとは一体何処なのだろうかと思った。また、個人的には去年体験したが言葉にできなかった事を小説という形で代弁されているという気にもなった。泣けた。

 本書の中に小豆はおろか、すべてのものは言葉をもっており、その声を聞く、というのがある。予報では今年は秋が長いと言うので、今はそれをするのに相応しい季節だと思う。

 食欲の、読書の秋に是非。明日は彼岸。自分でおはぎを作りたくなった。 

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ハタ迷惑のリレー

51zvf6vev4l__sl500_aa300__2 最近、良く子供とレンタルの映画を見る。大体、自分が見たい映画、次に子供に見て貰いたいと思う映画だが、その話を同僚の一人にすると「父と息子のフィルム・クラブ」(デヴィッド・ギルモア著、高見浩訳 新潮社)なる本を教えてくれた。

 不登校になった15才の息子に学校に行かなくても良いから週3本映画を見てその感想を語り合おうと持ちかけた父親。そして、それを3年間実行していくうちに二人がどう変わったかを綴った実話だとか。見た映画は多岐に渡っているらしく、どんなラインナップか興味がそそられる。

 自分の本棚にある本を子供が知らずに読み始め、感想を話してくれたりする事に喜びを感じた経験が、子供を持つ親なら少なからずあると思うが、音楽や映画もそう。好みや感想を聞くうちに子供の意外な一面を見たり、また自分と似ているところを見出して気恥ずかしくなったりする。

 自分が良いと思ったものを子供に伝えたい、教えたい、という欲求が自分の中に意外なほど強くある事に驚く。世の父親ってだいたいこうなのだろうか?だが親のこうした思いは子供にとって大概ハタ迷惑なのも分かっている。自分の子供時代を振り返っても。

 ぼくが子供の頃、亡き父に強力に薦められた本は吉川英治の「宮本武蔵」。福島いわきの常磐炭鉱野球部「オール常磐」の選手だったのでバットマンと剣豪、重なるところがあったのだろうか?なんかちょっと古臭い装丁で辟易しながら読んだのを思い出すが、写真は文庫判。後年NHKでドラマ化されそれが面白かったので、その後読み直したら良かった。お通や又八や吉岡兄弟、宍戸梅軒など、登場人物達の様子を嬉々として話す父を、先日、青梅の「吉川英治記念館」の前を通った時、ふと思い出した。その程度の事なのだが、その程度の事が妙に懐かしかった。そして父は今の世の中からすると随分と若くして死んだ部類なので(58才)もう少し生きていて欲しかった、と思った。

 先日、息子と見たのは「ショーシャンクの空に」(1994年 米 フランク・ダラボン監督)。この夏はビールを飲まないつもりでいたが、例のシーンを見て(見たことのある人は分かっていただけるでしょう?)無性に飲みたくなってしまい禁を破ってしまった。それでここのところ、またちょこちょこと飲み始めていて今も飲んでいる。で、連日暑いのでやはり美味い。

 今日八月八日は父の命日。それで酔いも手伝ってこんな事を書いた。薦められた映画はきっとあったのだろうが思い出せない。 

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「思い出のマーニー」再読

Cai_0350_2  先月、映画を見に行った時、本編が始まる前にスタジオ・ジブリの最新作の予告を見た。派手なキャッチコピーや宣伝文句は無く、ただ綺麗な絵と透明感のある歌だけの映像で妙に心に残った。それで今回は「思い出のマーニー」か、とその時初めて知った。

 映画「ゲド戦記」封切の時、宮崎吾郎監督が「もう一度アニメを子供たちの手に返したい」というような発言をしていたのを思い出す。今回の「思い出のマーニー」についても米林宏昌監督は同様のことを言っていて、つまり、宮崎駿、高畑勲両巨匠の作品は色んな意味で大人向けになってしまったという思いが少なからずスタッフ内部にもあったという事だろう。

 映画「ゲド戦記」はル・グィンの世界的名作を借りて少年期の葛藤をそのまま映像にした作品だった。今度の「マーニー」は少女。映画化に際して新装された本の巻末には故河合隼雄氏の感想が付いている(写真)。そう言えば「ゲド戦記」、特に「影との戦い」も河合氏から考察の対象とされた本だった。ジブリが「子供たちの手に返す」とした時、こうした心理学の格好の素材とされた児童文学の作品を選ぶのは何か意図したところがあるのだろうか?分からないが、なんにせよ今回の映画「思い出のマーニー」は映画「ゲド戦記」と対のもの、というような予感を勝手に抱いている。

 ぼくが昔読んだのは岩波少年文庫から出ている上下巻に分かれているやつ。来週になったら日本中がこの物語を「見る」だろう。それで例の挿画のイメージだけで読める今が最後の時だと思って今また読んでいる。

 そして↓は予告の時流れていた主題歌。韓国系アメリカ人のシンガーソングライター、プリシラ・アーンの「Fine on the outside」。こちらは映画を見ずとも原作の世界観に合っていて心地良い。これも来週になったら日本中で口ずさまれるんだろうな。

 http://youtu.be/Yb2arWjBhp0 

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