漫画『グーグーだって猫である』~Love Life

グーグーだって猫である Book グーグーだって猫である

著者:大島 弓子
販売元:角川書店
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 これはエッセイ漫画なので主人公は著者の大島弓子さんだろうし、また、登場するたくさんの猫達だとも言えるのだけど、本当は“愛”というものの正体を描いた漫画なのだと思う。それは崇高な哲学や観念や一方的な思い込みではなくて、見かえりを求めず、ただ命の温かさのそばにいて触れていたい、またそれを守り慈しみたいという純粋な欲求のことだ。そして、そのような暮らしが身体に残していくであろう記憶の積み重ねのことだ。 

 この漫画を読んで、私自身、封印していたつもりの今は亡き愛猫くんに関する様々な思い出が体中からゴボゴボと吹きこぼれてきてしまった。爪を切ってやるときの爪の先を飛び出させようとして押す肉球の感触とか、寝ている布団の上に乗って来たときの重さや潜りこんで来たときの温かさ、そして目覚めたとき、いつも頬に触れていたその毛のくすぐったさエトセトラエトセトラ・・・・。

 それらが当たり前にある日常は遠くから眺めなければ分からない点描画の一点に似て、普段は気にも留めないが、遠く離れて見るととても大きな絵になっていたりする。そして、極稀にその一点の美しさに普段から気づいている人がいて、大島弓子さんはきっとそんな人なのだと思う。

 実際に漫画第4巻の中にこんなエピソードがある。猫はどんどん増えていくが、その中でも主要な一匹であるビーが突然いなくなってしまう。どんなに外に遊びに行っていても必ず夕方の5時には帰ってきてごはんを催促するビーだが、その日はそれがない。その視線がないということだけで大島さんは異変を感じ取り、気が狂わんばかりになってビーを探す。他の猫たちも一緒になって探す。いくら金がかかろうと、毎日、納豆ごはんになってもいいからと“ペット探偵”なる高額な輩も雇って探す。そして、探すうちに動物実験に使うためにペット達を拉致する“猫取り”のこととか、近所に猫達を閉じ込めてしまう心無い家があるとかの情報を得て、その不安はピークに達する。「私はこの恐怖に耐えられるだろうか?」大島さんはそう書いている。そう、愛には恐怖が伴う。喪失と、また愛するものが不当な暴力によって傷つけられているのではないかと想像する恐怖が。

 結局、ビーは自分で戻ってくる。疲れ果て薄汚れて。勿論、猫は言葉を喋れないからその間、何があったか知る術はないのだが、このエピソードの最後にこんな言葉がある。「ビーがそこに眠っている。それだけで今までの苦しみはうそのように無い。」「何が欠けても一瞬にして崩れる日常の幸福。今ここにあるのだった。」

 私はこのエピソードに関しては漫画として読めなかった。私の場合、猫ではなく子供だったが。そして、この件には他者を受け入れ愛するということは、その対象がたとえ猫であってさえもそのような心の試練と不可分になっていることを教えてくれる。逆説的にそれに立ち向かう覚悟が無い人は一生愛を経験できないのだ。

 この漫画は現在4巻まで出ていて連載は継続中らしいが、私は仕事場の大の大島弓子ファンという方に全巻借りて最初から一気に読んだ。それで気づいたことだが、1巻冒頭になぜかライアル・ワトソンの“ものにも魂がある”という言葉が出てくる。そして、座布団や冷蔵庫や洗濯機の気持ちを推し量ったり、話しかけたりするシーンから始る。

 なぜ猫の話をここからはじめるのだろう?と初め不思議に思って読み始めたが、その後、長年連れ添った猫サバの死が語られ、自身のガン体験が語られ・・・としていくうちにハタと気がついた。上のライアル・ワトソンの言葉は突き詰めると同じ地球上に発生した全ての物質は生命・非生命の区別なく宇宙の大きな循環と連鎖の中にあるので、地球を<ガイヤ>という大きな意志を持った生命体として考えた場合、それは仲間とも言うべきものだといという意味が(多分)あり、これはネイティブ・アメリカンやその他の先住民たちの持っている思想・メンタリティと同じである。

 そして、この視点から物語が始められことに思いを馳せると、その後の猫たちとの話に突如コズミックな響きが加わることに気づく。誕生と死と、その間に横たわるガラス細工のように繊細な日常。洗濯機やプリンターにまで意志を感じ取る大島さんにとってはもはや猫はただの猫ではない。自身のガン体験は漫画の中ではサラリと時にユーモラスにさえ語られているが、本当は激越な死の恐怖とそれを乗り越えようとする努力があった筈で、猫達はその時、宇宙的な命の輝きと循環の象徴そのものだった筈だ。

 猫は巻を重ねるごとにどんどん増えていくが、主要な猫は4匹である。グーグーとビーとクロとタマ。どれも大島さんの極上の愛の賜物とも言うべき可愛さだが、私はやはりグーグーが一番好きだ。そしてこのグーグーこそが大島さんの思想の“化身”とも思える猫なのだと思う。どんな子猫がやってきても威嚇せず、恐がらず、猫キスをして大らかに受け入れるグーグー。そして必要以上にかまわずに泰然自若としている。

 また漫画にはもう一つ隠れたメッセージも感じ取れて、それは「都市と自然の共存」ということ。舞台は吉祥寺で、私も長年住んでいた街なので余計親近感が沸くのだが、このようなテーマを考えるのにあの街は格好の場所だと言っても良い。考えてみれば猫は自然そのもので本来コントロール不能なものだけど、4巻の最後にはついには住処を追われた狸まで出てきて、今後の展開が楽しみといったところ。しかし、今の吉祥寺、武蔵野界隈にまだ狸がいるのか・・・目からウロコな話である。

 先日、本屋で立ち読みしていたら「<恋>は下心で<愛>は真心」という言葉に出くわした。筆談ホステスとか言う人の語録集みたいな本だったけど、それでいくとやはりこの漫画は愛の物語だ。愛のある暮らし。Love Life。大島さんがクレイジーなまでに猫=命への愛に突き進む様が心地良い。いつだって当たり前のことを迷いなく平気でやってのける人は偉大だ。

 真心という宇宙的な愛が天使のような猫達注がれている。

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永遠の「これでいいのだ」

天才バカボンthe best 天才バカボンthe best

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 赤塚不二夫氏死去のニュース。ショックだ。何故なら私の人生の最初の先生は赤塚不二夫だったから。嘘ではない。私が生まれて初めて貰ったこずかいで自らの意志で買い求めた本は『天才バカボン』の1巻だったのだ

 ちびっ子だった時、1日20円貰って仮面ラーダースナックを買っていたがそれにも飽きて、一ヶ月に一冊だけ漫画本を買っても良いという事になった。その文庫本の代金がそのまま正式な一ヶ月のこずかということになった。それである作品を気に入ると一ヶ月に一巻づつこつこつと買い集めていくのだが、その最初が私の場合『天才バカボン』だった。

 面白かった。いつもいつも腹をかかえて笑っていた。畳の上をのた打ち回るほど笑った。一ヶ月間、同じ本を何度も何度も見て、同じところで笑って、のたうちまわって・・・・終いにはいい加減にしろと、父に叩かれたりした。

 『天才バカボン』は前半より、中期~後期になるに従って段々アバンギャルドになってくる。それは殺人的に忙しい氏が、なんとか楽?しよと考え出した言わば“反則技”によるものだが、これが頭が曲がりそうなほど面白かった。

 ページをめくる。すると見開きに真正面から描いたバカボンのパパのアップ。ギャハハハだった。それとか、“今回は赤塚先生が怪我をして”との理由でスッゴイ下手くそな絵で物語りがあって、「後は自分で描いてみよう!」とのバカボンのコメントの後、いきなり白紙のカット割りだけだったり・・・・こんなのありなのか?と子供心に思い、手抜きだとは思えずいつも爆笑していた。

 私が今でも覚えている話。

 ある日、バカボンのパパが目ン玉つながりのおまわりさんに、いつまでウンコをしないでいられるか?と賭けを申し出る。パパが早くウンコをさせる方で、本官さんが我慢する方。それでパパは本官さんに色んなものをご馳走する。貧しい本官さんが普段喰えない様な寿司なんかも一杯食べさせて早く満腹にしてトイレに行かせようとする。しかし、本官さんはこのまま我慢していれば美味しいものがいっぱい食べられると思い、ひたすら我慢する。それで本官さんの腹は段々風船のように膨れてくるが、それでも意地汚い本官さんは我慢する。その時、パパが大声で“ワ!!”と声をかけたりすると、見開きで、本官さんのこめかみに冷や汗を滴らせ堪えている表情のアップが劇画タッチで描かれたりして大爆笑なのだが、そんなこんなをしている脇で交番にこっそり泥棒が入って銃を盗もうとする。その時、ついに我慢しきれなくなった本官さんのお尻からズボンをぶち破り、凄まじい剛速球のようなウンコの弾が次々と撃ち放たれる。本官さんはマシンガンを乱射しているようになる。それで、泥棒は逮捕され、本官さんはスッキリし、パパの『これでいいのだ!』で話がおわるのだが・・・これ、下らないけど凄かった。小学校3年生だった私は気が狂ったように笑った。ブニュエルよりもシュールだった。(今、思い出しても爆笑)

 それと氏の描く漫画に出てくるたくさんのキャラクター。ニャロメ、ケムンパス、レレレのおじさん、ココロのボス、あ太郎、デコッパチ・・・私はほとんど描ける。で、中でも私が一番好きなキャラはウナギイヌである。それとノラ馬。ノラ馬知っている人います?これを知っている人はバカボン通ですぞ。ノラ馬はかつてサラリーマンで奇麗な恋人までいたが、今は落ちぶれて野良という設定。玉子酒を飲ませるとギターで当時デビューしたばかりの矢沢永吉率いるキャロルの『ルイジアナ』を歌ったりする。別れる際の恋人のセリフがまた秀逸で『ひどいわ、馬だったなんて・・・。』って言うの。ギャハハハハハハ、何か芥川かカフカの世界ですね。

 現実に困難なことがあると、それをギャグにして笑い飛ばしてしまおうとする傾向が私にはあって、それはジョン・レノンをお手本として身に着いてしまった傾向だと思っていたが、その下地を作っていたのは赤塚不二夫、ひいてはバカボンのパパの影響なのだと今思い至った。

 考えてみるとバカボン一家って理想の家族なのかもしれない。破天荒だが存在感たっぷりのパパとバカでも素直なバカボン、利口なハジメチャン。それと美人のママ。特にあのママは理想だなあ。

 赤塚先生が亡くなっても、バカボンのパパは生き続ける。生き続けてくれなきゃ困る。

このダメ出しばかりの世の中に『これでいいのだ!』って言い続けてくれなくちゃ。

PS・ 上に紹介した話で、お寿司をご馳走になった本官さんが、「数年ぶりに食べた。このエビの尻尾、今日の日記に貼っておこう。」とかいうセリフがあった。それで私は初めて自分の金で寿司屋に行った時、それと同じことをしようとしたのを今思い出した。私の体内には実は隅々まで赤塚イズムが満ちている。今でも寿司のネタの中でエビが一番高級品だと思っている自分がいる。

改めて赤塚先生、合掌。

 

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ボケーっと・・・・・。

浮浪雲 86 (86) (ビッグコミックス) Book 浮浪雲 86 (86) (ビッグコミックス)

著者:ジョージ秋山
販売元:小学館
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 また、嫌な事件。「一体、人間はどうしちまったんだよぉ!」。第何巻の何話目か覚えてませんが、夢屋番頭の欲次郎さんがこんな叫び声を上げる話が、確かこの『浮浪雲』にありました。核兵器より地震より何より人間にとって一番恐いのは人間・・・・と、あるアイドル歌手が昔インタヴューで言っていて、その時はその娘がとても哀われに思えましたが、今の若い人にとってはそんなこと、言うのもはばかれるくらい当たり前のことなんでしょうね。

 人間って良いなあ、と思う瞬間って今、一日の内にどの位あるだろう?時々、そんな風に思います。そして、余りそう思えない時は、私は落語を聞くかこの『浮浪雲』を読むことにしています。こういう世界ってなにも江戸時代まで遡らなくても、私が子供だった頃の周囲の大人達は皆、こんな風に生きていた気がするんですけどね。

 良くコンビニの売店で『浮浪雲』を立ち読みしますが、ビックコミック、前回のお花ちゃんが天然痘撲滅のため自ら種痘を打つのを買って出る話、また今回の奉公の少年にオカメさんが親子丼を食べさせてあげる話、朝っぱらから私、思わず涙腺が緩んでしまいました。

格差とか、勝ち組、負け組みとか、何それ?言葉で遊んでんの?って感じ。こんな世の中で育って今の子供達って凄いプレッシャーなんだろうな。

 皆さん、少しボケーっと過ごすことにしませんか?浮浪さんみたいに。それであんなに女性にもてるわけじゃありませんが(笑)。一生懸命生きるって事と、あくせく仕事だけしてるってのはどうも違う気がするけどなぁ。

 ま、自戒を込めて言うのですけどネ。

 それにしても『浮浪雲』ってもう86巻も出ってんのか。

 

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マッハGOGOGO!

 

マッハGO GO GO 全曲集 Music マッハGO GO GO 全曲集

アーティスト:テレビ主題歌,久保田陽子,高尾直樹,速水けんたろう,ボーカルショップ,高橋元太郎,遠近孝一,村井毎早,宮内タカユキ,田中敦子
販売元:コロムビアミュージックエンタテインメント
発売日:2005/01/19
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 私の一番古い記憶。それはこの『マッハGOGOGO』なんです(笑)。本当ですよ!

 まだ、ちびっ子の頃、兄弟三人でアイスクリームを食べているのですが、兄と弟はカップのアイスクリームで、その箱にこの『マッハGOGOGO』の主人公とマッハ号のイラストが描かれています。私も『マッハGOGOGO』のアイスなのですが、私だけ棒つきキャンディーみたいなやつで絵のあるカップの方が良いと泣いています。すると父か母か祖父か祖母かはたまた親戚の誰かが『棒のやつは食べ終わると棒のところにマッハ号が描かれているんだよ。』とかなんとか言って、それで気を取り直して、私が必死でアイスを舐めているという記憶。

 調べるとこの『マッハGOGOGO』は1967~68年の放送だったようで、私は2才か3才、再放送のことを考慮しても、きっと4~5才の頃の記憶でしょう。またそのアイスのこととは別に、アニメ・オープニングの象を飛び越えたり、恐竜の骨のような下を潜り抜けるマッハ号のシーンも鮮烈に覚えています。

 この夏、あの『マトリックス』の監督ウォシャウスキー兄弟の手による『マッハGOGOGO』の実写版映画が公開されるのご存知ですか?主人公にエミール・ハッシュ、恋人役はクリスティーナ・リッチが演じるそうです。アニメ自体も荒唐無稽なカーアクションが売りでしたが、例の『マトリックス』で実証済みの特撮でどんな風に描かれるのか、今から楽しみです。

 で、例によってYoTubeで探したオープニングの動画ですが、今見てもカッコいいです。もうヴィンテージ物の良さですネ!!!。世界地図の上を走るレーシングカーの跡がそのままチェッカーフラッグになる斬新さ。音楽もホーンセクションと言うより“なんとか楽団”って感じで聞いていて気持良いです。

 それにしても毎朝の渋滞。このマッハ号欲しいっスね

 

 

 

 

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普通の一日

 

    今日は朝、こんな風に仕事に出かけました。

で、こんな風に帰ってきました。

凄い一日だって?これが私の普通の一日。・・・・・嘘だっつうの。

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拳でリスペクト

 

あしたのジョー (1) Book あしたのジョー (1)

著者:高森 朝雄,ちば てつや
販売元:コミックス
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  『詩を書き、KOラウンドを予言し、相手をみんなやっつけ、人を笑わせ、人を泣かせ、そして俺みたいに背が高く、美しいファイターが、またいつか現れるかね?この世の始まり以来、世界史上、俺のようなファイターはほかにいなかったぜ。』

              (トマス・ハウザー著『モハメド・アリ』より)

 

11日のWBC世界フライ級タイトルマッチ以後、亀田親子に対するバッシングが凄いですね。この試合、私も見ましたが、その後の報道も含め色々なことを考えさせられました。

 まず、世界タイトルマッチって昔はもっと厳粛な雰囲気の中で行われるものじゃなかったかなあ。まず、その辺で最初から興ざめしました。また、世界チャンピオンだった内藤大助選手の収入が奥さんとの共働き分も合わせ、月12万円ほどだったというのにも驚きましたね。世界チャンピオンですよ?これが事実ならボクシング業界の底上げのため、ヒーロー役だろうとヒール役だろうと買って出て、世間の目をボクシングに向けさせた亀田親子は、嫌いですが、何がしかの貢献はあったと認めざる終えません。

 この問題は少し大げさに言うと、日本人のスポーツ観戦の洗練度に関係がある気がします。大リーグと日本のプロ野球の試合観戦を比較するまでもなく、元々、日本人にとってスポーツ観戦は言わば一種の“祭り”、行われているゲームそのものより日常から逸脱できる、大いなるストレス解消行為といった感が強いです。最近はその傾向がさらに強くて、地道にいい試合をしていても世間の耳目が集まることも無く、派手な山車のある“祭り”と金になる神輿の方がついちやほやとされ、結果、今回のような反則有りの勘違いも生まれてくるのでしょう。

 亀田兄弟は二人とも納得のいかない試合の後、良く、『ぶさいくな試合で悪かった。』と言います。彼等と彼等のファンにとっての“ぶさいくじゃない試合”というのは亀田側の一方的なワンサイド・ゲームを指しているようで、そんなの見ていて面白いかなあ、とつい思ってしまいます。ようするにスカッとすれば良いようで、見る側もスポーツを見る醍醐味がどの辺にあるのかを知り、かつもっと勉強しなければいけないと思います。

 私がボクシングの試合を見て震える程感動したのは1994年12月に行われたWBC世界バンタム級タイトルマッチでの薬師寺保栄VS辰吉丈一郎の試合です。辰吉も亀田兄弟に負けず劣らずのビッグマウスでしたが、壮絶な打ち合いの後、彼が薬師寺の腕を高々と上げ、『試合前、色々言ってすまなかった。』と、相手を讃えたシーンは、見ていて胸が熱くなったのを覚えています。

 私は何が嫌いって、本来、個人競技に属する種目なのに金儲けのため徒党を組んで群れ成している輩が大嫌いです。かつてのゴルフの尾崎軍団とかそうですし、亀田親子も結局はそれにあたります。そもそもどんな環境で育ってもリングの上では一人っていう世界なのに、親子でコーナーに巣くって相手に凄んでいるなんて異様な光景です。ボクシングも地に堕ちたと言われても仕方がないでしょう。

 亀田親子は『明日のジョー』を読んだでしょうか?この名作の主人公は言わずもがな矢吹ジョーですが、ジョーが一漫画の主人公に留まらず、70年代のアイコンとして未だに人々に語り継がれるのは1にも2にもジョーが単独者だったからではないでしょうか?段平のおやじさんやドヤ街の愛すべき人々に囲まれてはいるものの、ジョーは基本的に最初から最後までずっと一人です。

 今、読み直すとジョーも長い物語の中で、今回の亀田大毅のような反則プレーを何度かしますが、それは例えばカーロス・リベラ戦でのように、互いに貧民街で育ったもの同志の友情の発露としてのケンカ・ファイトで、そこには相手に対してのリスペクトがあり、何か崇高な感じすらします。

  『あしたのジョー』は大きく見れば友情の物語として読むことができます。ジョーとライバル達は、あの有名な林屋ののりちゃんとの公園でのシーンでジョー自身が語るように、歯が浮いたようなおべんちゃらや美しい美辞麗句を語ることなど一度も無く、ただ真剣に打ち合うことでのみ相手にリスペクトを示します。特に後半でのジョーは自らの手で死に至らしめてしまった力石との友情に殉じているようでもあります。

 翻って亀田親子は一体何をしたいのでしょうか?兄弟で世界チャンピオンになる?父親の指導が間違っていないことを証明する?しかし、それを実現する過程で見る者に何を残すのでしょう?だいたいチャンピオンをゴキブリ呼ばわりさせておいて、子供の教育論や躾け論なんてされても困るんだよな。

 そして、観戦する側ですが、そろそろお祭り騒ぎで憂さ晴らしするんじゃなくて、ちゃんと“試合”を見ませんか?プロ野球の鐘や太鼓も、格闘技の古館一郎的なアナウンスももういりません。テレビも過剰な演出はもう止めろ。

 “普通にやってちゃ金になんない”なんて、スポーツの場でだけは言うの止めにましょうよ。

 

PS 日本ボクシング史上、最高の試合と言われる1996年の辰吉VSシリモンコン・ナコトンパークヴュー戦、動画を探したけどありませんでした。誰かYouTubeにアップしてくれー!。

 

 

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ワインという言葉

 

神の雫 (1) (モーニングKC (1422)) Book 神の雫 (1) (モーニングKC (1422))

著者:亜樹 直,オキモト シュウ
販売元:講談社
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 韓国では『デス・ノート』を越えるベストセラー、この漫画に紹介された銘柄のワインはあっという間に店頭から姿を消してしまうなど、今や国内ワイン市場に影響を及ぼすとも言われる漫画『神の雫』。

 紹介してくれた人曰く、“『美味しんぼ』のワイン版”ということでしたが、私の一読した感想は浦沢直樹の“『マスター・キートン』のワイン版”と言ったものです。この漫画の魅力の一つにその卓越したワイン表現と言った点があるのですが、そこには文学、美術の知識も含まれていて、読後ちょっとスノッブな知識欲を満たされた気になるのも『マスター・キートン』に似ている気がします。

 ストーリーは、世界的なワイン評論家である父がある遺言を残して死ぬ。その内容は彼が選んだ『12使徒』と呼ばれる偉大なワイン12本と、その頂点に立つ『神の雫』と呼ばれるワインの年代、銘柄を期限までに全て言い当てた者に遺産を譲渡するというもので、この遺言を巡り、父にワインの英才教育を受けながらもそのせいでワインに嫌気がさし父から離れていた息子と、遺産とワインのコレクション目当てに養子縁組した気鋭の若きワイン評論家が対決するというもの。主人公の息子神咲雫が抜群の臭覚と味覚を持ちながらワインについてはずぶの素人で、物語が進むに連れてワインの造詣を深めていくといった展開も、読者が共に学んでいけるようで感心します。

 しかし、正直言うと私はワインの味を言葉で表現する例のヤツが前から苦手でした。実際にはそういった場面に居合わせたことはなくテレビで見るだけですが、もし、居合わせたら内心“プッ”と吹き出してしまう以上に“ギャハハ”と笑い出してしまいそうになって、堪えるのが大変でしょう。

 この本の中でワインの味を表現するシーンの台詞を一部抜粋しますと、

 『このワインを例えるなら一枚の絵画。大地を讃えるかの如く地を耕すような肉厚の筆致でカンバスに何層にも積み重ねて描かれたジャン・フランソワ・ミレーの代表作“晩鐘”。夕暮れの空に果てしなく響く鐘の音に神を感じ、静かに頭を垂れる農夫を描いたその絵は大地の恵み、すなわち“テロワール”に祝福された1本の名画に重なる。』 (第1巻81~83p 1982年『シャトー・ムートン・ロートシルト』について)

『サロメ。そう、このワインはまさに“官能”そのもだ。しかも退廃が生み出す血の匂いのする“官能”・・・・舞い踊った褒美に王女サロメは洗礼者ヨハネの首を求めた。切り落とされたその首は皿に載せられサロメに差し出される。おお、なんという悪魔的退廃、何という甘美な陶酔。』(第1巻175~176p 『ミアーニ』について)

 ギャハハ・・・って感じになりませんか?私だけかなあ。本来、食べ物や飲み物の味って、甘い、苦い、辛い、渋い、酸っぱい、不味い、美味しい!!という以外、言葉では表現しえないものだから、やろうとするとこうなってしまうのかも。

 それでも私、今回、あえて身の回りにある飲み物や食べ物でこれに挑戦してみました。

『かつて同郷で薩摩隼人を自認するカリスマ・フォークシンガーと不倫関係にあったため淫らな妄想を喚起するも、その後の毅然とした記者会見で保ったぎりぎりの気品。齢を重ねるごとにかつての若やいだ魅力は失せたものの、引き換えに手にした豊潤な色気。秋の夜長にたっぷりと味わいたい大人の官能。ー国生さゆり。』 (『焼酎 薩摩美人』)

『地獄に喜んで落ちていくアリ達の罠。幼き日々の郷愁を思わせる夕焼けの色、それでいて日に焼けた肌の感触を恋しがる秋の浜辺、一夏の後悔。大人の女(ひと)に手ほどきされたカーテン越しの風味絶佳。一度知ったら、後には戻れない官能の甘さ。』 (『森永ミルク・キャラメル』)

 『情熱の告白を“友達で・・”とかわされた時のあっさり感。噛んでも噛んでも歯ごたえの無い感触のわりに口に広がるだるい甘さ。奥歯の裏にくっついてしまった時は、傷心の勢いで好きでもない相手と一夜をともにしてしまいふと我に返った時のような鬱陶しさ。でも持て余した欲情に困り、惰性で続ける手軽なおやつ』 (『うまか棒)』)

・・・・・・と、こういったことを続けていくと凄いソムリエになれるかというと、勿論そんな訳ねーだろーで、ただ、これを続けていくと食べ物の味が喚起するイメージを言葉・物語に翻訳する技は確かに磨かれていきそうで、結局、それをワインでやりゃーいいんだろうと言うことになります。

 この漫画、個人的な好みからするとちょっと絵の感じが苦手です。少女マンガっぽい絵なので(そう感じるの私だけか?)男性はその辺で好き嫌い分かれるかもしれませんが、私は読んでいるうちに慣れて気にならなくなりました。

 第1の使徒はようやく6巻で降臨します。現在、何処まで物語が進んでいるのか知りませんが、“使徒”は全部で12本あるので・・・・・・まだまだ引っ張れそうです。

 この漫画、今でも売れていますが、もっともっと売れる予感がします。すぐドラマ化とか映画化されるような気がしますが、その時のキャスティングを想像したりしながら読むのも楽しいかもしれません。

 

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大阪弁アラベスク

 

大阪ハムレット (1) (ACTION COMICS) Book 大阪ハムレット (1) (ACTION COMICS)

著者:森下 裕美
販売元:双葉社
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 大阪弁も方言なのだろうか?私は千葉の市川で幼少期を過ごし、それから福島に移ったので、多少、東北弁を話すようになったものの東京に来るとまた元の標準語に戻ってしまい、あまり言葉で苦労した経験は無い。しかし、昔、東北出身者が集まる飯場にいた時、皆がいかに言葉に対するコンプレックスを持ち、日々、鬱屈して過ごしているかを目の当たりにして、哀しく、また息苦しかったのを覚えている。

 東京にいても関西、特に大阪の人はそんなことヘッチャラな人が多い。かつては日本の文化・経済の中心は自分達の方にあったんだと言わんばかりに、堂々と自分達の言葉で語り、自然と自らの生き方を通していて、見ていて惚れ惚れとすることしきりである。

 漫画『大阪ハムレット』が素晴らしいのは、この大阪弁によるところが大きい。勿論、この作者独特の絵、短編一つ一つの物語の面白さ、特異なキャラクターなど、挙げればきりが無いのだが、これらの物語が全て標準語で語られていたらこの作品の魅力は半減したことは間違いない。そして、大阪弁を屈指したこの漫画は、普段私達が見聞きするちょっと過剰に報じられてしまうニュースや出来事が、本来、日常の中でどう扱われれば良いのかをさりげなく示してくれる。

 例えば第1巻の第2話『乙女の祈り』は女の子になりたい男の子がクラスで『ボク、女の子になりたいと思てます。ボク真剣やから変にからこうたりせんとって下さい。』と宣言するところから始まる。クラスメートの何人かは『きしょわるい』と言い、先生も驚くのだが、しかし、両親はあっけらかんとしていて、『せんせ、しばらくやさしく見たってください。』とだけ言う。

 結局、クラスメートの提案で普段したくても出来ない女の子の格好を学芸会ならできると、その男の子をシンデレラに、男の子のようにカッコいい女の子を王子様にして、劇と踊りの練習が始まる。そして、いじめのようなこともあるのだが、私が一番感動したのはその時、弱音を吐く息子(娘?)をお風呂で頭を洗ってやりながら励ますお父さんの言葉である。

『女になるのやめんか?心が自由でいられへんでもええんか?』

 標準語で生きる思考回路だとこの出来事は“解離性性同一障害”とかの話になってしまって、物語の手触りがあらかじめ失われてしまう。しかし、方言(大阪弁)は、このお父さんのこの言葉に代表されるように、この異質な男の子を、はなっからアウトサイダーにしてしまわない。

 最後に女の子として華麗に踊った男の子は、町でまたいじめられそうになるが、そこに町一番の不良がやってきて『こいつカッコエエやん、ほっといたれ』と、一言言って、この異質な存在をすんなり日常に溶け込ませ物語は終わる。

 『大阪ハムレット』にはこの他にも、不妊治療に悩む夫婦や、背が高くふけ顔の中学生が、ファザーコンプレックスの女性と年齢を偽って付き合う話など悲喜こもごもの話が盛りだくさんだか、どの話にもこの大阪弁マジックが効いていて、登場人物たちのさりげない会話が言霊のように胸に響く。

 私は実は大阪にはまだ一度も行った事がない。しかし、昔から大阪弁を良いなあと思っていて、それは水島新二の漫画『男ドアアホウ甲子園』の藤村甲子園から始まり、上田正樹の『悲しい色やね』を経て、最近のドリカムの新曲まで続いている。

 上に紹介した女の子になりたい男の子の話は続編もあって、そこでおばあちゃんが言う言葉。

『せっかく生きとるんや 男でも女でも生きとったらどっちでもええわい。』

 すげぇーなあ。すげぇーよ、大阪。

 

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バンドマン・スピリッツ

20世紀少年 ―本格科学冒険漫画 (19) ビッグコミックス Book 20世紀少年 ―本格科学冒険漫画 (19) ビッグコミックス

著者:浦沢 直樹
販売元:小学館
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 この漫画が始まったのは1999年だから、連載はもうかれこれ8年も続いていることになる。私と息子はこの漫画の熱狂的なファンで、雑誌で連載されているものはあえて読まず、単行本になるのを待って、出ると二人で本屋に買いに行き、宝でも手に入れたようにして親子でしばし回し読む。しかし、この間、『20世紀少年』第23巻の発売を待ちわびていたら、発売された本は『21世紀少年』上巻、となっていて、これでこの下巻が出たらいよいよ終わりなのかと思うと少し寂しい。

 私がこの物語の何処に一番惹きつけられたかと言うと、それは世界を未曾有の危機に落とし入れるようとする新興宗教組織に抵抗する人々が、とても特別な絆で結ばれていて、その関係性にある種の憧れを感じた点にある。

 その特別な絆とは何か?私はそれをあえて“バンド・マン”スピリットと呼びたい。“ミュージシャン”という言葉に私はなんとなく、テクニシャンで音楽理論にも長け、楽譜も読んだり書けたりする単独者を思い浮かべるが、“バンドマン”と言うと、カセット・テープレコーダーの周りに皆で集まってワイワイ耳コピーしながら育ち、腕を磨いた、職人的な音楽集団を思い浮かべる。

 例えばビートルズはその初期においては“バンドマン”だったが、段々と個々の表現が充実してきて、最後は“ミュージシャン”になってしまった印象がある。

で、“バンドマン”の最も典型は何かと言うと、それはローリング・ストーンズで、キースとミックはプライヴェートではきっと全然会いもしないし、連絡も取り合っていないのだろうが、1度ステージに揃えば、これ以上の関係性は今後この地球上に2度と現れないような空気を現出させてしまう。

 厳密に言うと、この『20世紀少年』の中でバンドマンなのは主人公の一人遠藤ケンジと、元ケンジのバンドのドラマーだった波春夫先生だけである。が、私は他の登場人物、例えばオッチョやユキジやヨシツネ、ケロヨン、マルオ等にも“バンドマン”の匂いを嗅ぎ取る。彼らは仲間内で、それぞれにアンサンブルの何処を自分が担っているのかを熟知しており、そこを逸脱はしない代わりにそれぞれの持ち場で最大限の抵抗を企てる。

 私は作者の浦沢直樹が、肥大化した自意識の無残な結果として新興宗教組織が行うテロ行為に、この“バンドマンスピリット”=“ロック・スピリット”を対抗させたのは凄く正しいと思う。

 世界全体の救済から個の救済に至ろうとする宗教に対し、優れたロックは個人のみを救済する。この物語の登場人物達は一人残らず皆、世界に正しい秩序を回復しようとして戦っているのではなく、あくまで個人的な“想いで”戦っていて、間違っても『世界平和』などと大それた大義名分が無いところがカッコいい。

 私がこの漫画の登場人物の中で一番好きなのはオッチョである。私は彼にキース・リチャーズを感じる。で、主人公のケンジに誰を感じるかと言うと、それはニール・ヤングである。

 漫画は子供時代のケンジが給食の時間、学校の音楽室に立てこもり、Tレックスの『20センチェリー・ボーイ』をかける所から始まる。息子は今、学校で放送部員で、毎日、何をかけるかもめるらしい。この間、『20センチェリー・ボーイ』をかければ良いじゃないか、と、途中まで言いかけて、急遽止めた。

 彼はすでに『21センチェリー・ボーイ』なので、この歌、彼の年代の子供達には、もう時代遅れだからだ。

 さていよいよこの漫画も終わる。物語の本当の黒幕はだれなのか?“ともだち”の正体は?

 私は薄々感じているが、ここで書くのは止めにします。雑誌連載日までお預けです。

だって・・・・・・・・・・・本当の理由は、違かったらカッコ悪いからね。

 

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