水木しげる氏死去

 

 水木しげる氏死去。夜の町が明るすぎて妖怪が出てこれないと、いつだか水木先生は言っていた。近年、経済効果とやらの後押しで明るすぎる夜をモンスターの仮装をして闊歩するイヴェントがすっかり定着したが、本当の妖怪は全く出る幕が無くなった。

 自分の古い記憶の一つに幼少期に我が家にあった白黒テレビに映る「ゲゲゲの鬼太郎」のあのオープニングの映像がある。食事の時にテレビを見てはいけないと父がスイッチを切ったのだが、幼い自分はどうしても見たくて、テレビまで立って行ってまた点けた。そしてちゃぶ台の自分の席に戻って怒った父に箸で頭を叩かれたという記憶。多分、四、五歳の頃のことだと思う。昔はどの家も夜は電気はついているとはいえどことなく薄暗くて、当時住んでいた炭鉱の社宅の木の雨戸が風でガタガタ鳴っていた。あの頃、外は妖怪でいっぱいだった。

 原発事故直後の薄暗い東京で僕は妖怪を見た。僕はあのままでいいと思っていた。皆、もう一度、妖怪と面と向き合うべきだと思ったから。だが夜の町はすぐに異様な明るさを取り戻し、妖怪たちはまた何処かに姿を隠してしまった。

Photo_5  数年前まで京王線調布駅前の某書店に毎日のように先生が奥様と連れ立ってやってくるとの話を聞いて、機会があればお会いしたいと思っていた。実際、職場の数人はそこで待っていて会ったと言っていて、正直に羨ましいと思っていた。

 僕はスマホを持っていないので、外にいる時ネットに触れることがない。氏逝去のニュースは昼頃、ネットのニュースやテレビの速報で流れたと聞いたが、僕は夜まで知らなかった。ただ昼間、仕事をしながら偶然にも水木先生の話をしていたところだった。なんという妖怪の仕業だろうか。驚いた。

 動画の歌は憂歌団。写真は氏の米寿記念の展示の時に買って、日頃、愛用している鬼太郎と猫娘のマグカップ。お湯を注ぐと頬っぺたが赤くなる。鬼太郎は会社で使っていてるので、今、猫娘でウィスキーのお湯割りを飲んでいるところ。妖怪とは本来怖いものの筈なのに、妖怪が出なくなった今の方が怖い出来事が多くなったと思えるのは何故だろうか?

 ご冥福をお祈りします。

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漫画「ワンピース」~この話はウソでいい

 海賊になるために村を出ていったお父さん。それを悲しむ寝たきりのお母さんを喜ばせたくて毎日「海賊が来たよー」と嘘をついていた子供の頃のウソップ。やがて成長すると村人は誰も彼の話を信じなくなる。
 
 だから、やがて本当に極悪な海賊が攻めてきてウソップがそれを告げても村人は誰も逃げない。それを受け「この村で俺の話は"嘘"でいい。」と、一人、闘い始めるウソップ。そこにやって来たルフィたちが彼の戦いに参戦し・・と、これが漫画「ワンピース」での狙撃手ウソップ登場の話だったと思います。

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 昨夜、ネット上の68新聞で安倍政権が2018年に徴兵制を導入するのを閣議決定したとのニュースが流れ、一部Twitterなどが騒然としましたがこれはフィクション、つまりデマでした。しかし、文章は良く出来ていて一見した時のショックはなかなかのものでした。

 http://www.68newspaper.net/article_detail.php?article_id=2026

 今日はエイプリルフール。「この話は嘘でいい。」誰もがウソップになれねばならない時かもしれません。

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漫画「含羞(はじらひ)」~千の天使がバスケットボールする

Nakahara_3「音だ。おれの詩は音だ。生死の旋律を言葉にしているのだ。生きているということのむなしさからのがれられるやつは誰ひとりいない。おれの言葉は読む人たちの心の中で絶叫し続けるだろう。」

 漫画「含羞(はじらひ) ―我が友中原中也」曽根富美子より。

 大阪大学の教授和田昌昭氏の「宿酔」のYouTube動画が再生回数100万回を越えている。

テレビ「探偵ナイトスクープ」でお笑いネタにされているのをたまたま見た時から僕は良い曲だと思っていた。中也の詩に曲をつけるというと思い出すのは友川かずきだが、その他にもきっといっぱいある(いる)筈。

 ぼくが初めて中原の詩に触れたのは小学生の時で中村雅俊のアルバム「さよならの吸い殻」の中の「汚れちまったかなしみに」だった。漫画「含羞(はじらひ) ―我が友中原中也」の作者曽根富美子は高校の時、中也の「北の海」を読み、長い髪を中也とおそろいのおかっぱ頭にした・・とあとがきにあるから相当な思い入れをもって作品を描いたのだろうが、そのせいか創作であるはずの漫画の一言一言がまるで彼女を媒介とした中也の言葉に思える。

 数日前、久々に漫画を完読してからというもの、中也の詩をまとめて読んだ。

 http://nakahara.air-nifty.com/

そして和田氏の「宿酔」が脳内でヘビロテ状態になっている。中也の絶叫が止まない。「宿酔」(しゅくすい)とは二日酔いのこと。飲みすぎもあるが。

     朝、鈍い日が照つてて
       風がある。
       千の天使が
       バスケットボールする。

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漫画『風の谷のナウシカ』~蟲使い

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 先週の3連休中に私は漫画「風の谷のナウシカ」を読んだ。映画の方はその昔、封切後ほどなくして見たものだが、その原作にあたる漫画版の方を私が初めて読んだのはさらにずっと後のことで、確か9・11アメリカ同時多発テロ直後だったと思う。

 人伝に難解と聞かされていたが、時期も時期だけに当時私はこの漫画を多神教的立場からの一神教批判のように読んだ。20代の頃、ネイティブ・アメリカンを筆頭に、幾つかの先住民の文化や思想に触れた経験から自然、そのような読み方になった。

 しかし、今回は180°違った。私はこれを価値相対主義をいかに克服すべきか?という物語として読んだ。読めた。世の中には様々な意見や立場があり、それら全てを等価とみなし尊重しようとする価値相対主義は、一見、民主的で素晴らしいもののように映る。が、しかし、その中に残虐で明らかに悪である思想・システムが含まれていたら人はどうするのか?例えば、あなたの愛する人を辱め、場合によっては殺すと宣言してはばからない悪が目の前にいたとしても、全てを尊重するとする価値相対主義でいる限りあなたはそれを傍観するか殺されるしかないのである。これを価値相対主義のパラドックスと言う。

 実際この「風の谷のナウシカ」は登場する様々なキャラクター、玉蟲(オーム)や巨神兵、墓所の主、ナウシカ自身等を何のメタファーと見るかによって大きく物語の解釈は変わる。10年前に読んだ時と今回のそれが真逆だったのと同様に、しばらくして後に読むとまた大きく違う感想を得る時があるかもしれない。そして、それはその時々の世相や状況を映し出す鏡のようで、結局、優れた物語とはそういうものなのだろう。読み終わるということはきっと永遠に無いのだ。

 この漫画については賛否を含め様々な論考がネット上にもある。

 http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-a293.html

 http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/nausika.html

 なのでその読み解き方について私はここで様々述べるつもりはないし、その能力もない。ただ、10年前に読んだのと今回とで解釈が大きく違ったことについては、私の中に3・11後、郷里福島で起きた原発事故とその後の状況があったのは明らかであり、この後はそうしたことを踏まえ、この漫画の中で私が気になった存在を絡めて私見を述べたいと思う。

 私が気になった存在とは「蟲使い」だ。

 「火の七日間」というカタストロフが起きた300年の後に栄えたエフタルという王国があり、初め平和に暮らしていたその国にも、いつしか王位継承争いを発端として内乱が起きる。その時、武具の素材として最高とされる玉蟲(オーム)の甲皮を取るために腐海に入り、玉蟲(オーム)狩りをしていた(させられていた)武器商人達の末裔が「蟲使い」だ。時代が下ったナウシカ達の時代ではすでに被差別民として、臭いだなんだと言われても腐海に住み続け、ただただ忌み嫌われている存在である。

 私はブログ「いわき日和」で、いわき市の市議会が大飯原発再稼動を支持した記事を読んだ時、突如、この「蟲使い」を思い出した。

  http://blog.livedoor.jp/aryu1225/archives/52019208.html#comments

 何も自虐的になって言っているわけではない。長く東京(中央)へ電力を供給すべく原発労働に従事し、事故後、現在も酷い目に会いながら未だ旧態然としたステムから離れられない市議会の決定は、王国が崩壊してもなお腐海に居続け卑下されている「蟲使い」そっくりだと思った。何故、最初からかっぺと馬鹿にし差別しながらエサ(金)を撒いていた者に、この期におよんでまだ尻尾を振り続けるんだ、いわき市。

 そして今、私は自分の故郷をあえて糾弾するように書いたが、本当はこの事態は原発のある全国の各地方でまさに現在起きていることだと思う。

 原子力発電所がある場所がそれぞれ歴史的にどういう場所かを注意深く見ればさらに色んなことが明確になる。大飯でも再稼動か否かで大揺れの時、ある報道番組で、稼動しなければ困るとする意見を言う人たちがいる一方で、年寄りの中の一人は、「あんなもの無くても平気だ」と、怒気を込めて語っていた。老人達は知っているのだ、元々、それがどういう視線で持ち掛けられた話だったかということを。

  原発は安全に稼動していても被曝労働者を生む。

 漫画の中で蟲使い達はナウシカに解放され、ナウシカの従者となる。しかし、現実の世界で自らを解放するのは自分自身しかいない。福島を救えるのは福島だけだ。いわき市はスローガンを「がんばっぺ、いわき」じゃなく、真っ直ぐ「原発反対」に変えたほうが良い。本当の復興はそこから始まる筈だし、そこから始めるべきだ。

 原子力村とはむろん地図の上にあるのではなくて我々の頭の中にある。一刻も早く皆で、そこから立ち去るか、壊すかしなければいけない。そこにとどまる事、それは「蟲使い」への道だ。

 この漫画を読んでいると言うと、何人かの人にラストが暗い、とか、ナウシカは最後に破壊者になるのだ・・・等言われた。

 しかし、私は思う。このラストのナウシカは本当に破壊者なのか、と。

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漫画『ガラスの仮面』~永続するギターリフ

Photo_3  「大人になったらエレクトリックギターを持とう」。昔、良く聞いたライブ版の中でニール・ヤングはそう言っていた。確か弾き語りで『I am a child』を歌った後に。

 考えるに大型バイクが大人の乗り物と言うのと同じ意味でエレクトリックギターも大人の楽器なのかもしれない。息子がハードロック大好き少年になった影響で、毎晩、様々な人達のギタープレイをDVDやYouTubeで見るにつけ、そんな風に考えるようになった。日々の雑事をしばし忘れ、大音量でこの楽器を自在に歌わすことができたならさぞ爽快だろうなと思う。まるで渋滞の首都高の車の隙間をオフロードバイクで駆け抜けていくように。

 最近、仕事場で休憩時間に美内すずえの『ガラスの仮面』を回し読みしている。男のくせに私が全巻持っていると言ったら、貸してくれという人がいてそれで始まったのだが、この漫画は10年くらい前テレビドラマ化もされて、主題歌をB'zが歌っていた。B'zは特にファンということではないし、この曲も初っ端の松本のリフ以外は記憶に無かったが、印象は強烈で、ガラスの仮面、という単語を聞くだけで条件反射のように頭の中でこのリフがプレイバックされてしまう。

 http://youtu.be/td8WGpkJt50

 この漫画はなんといっても題名が良い。深い。まるで舞台芸術の本質をたった一言で言い表しているような言葉だが、もう少し突っ込んで考えるとこれは演劇化されてしまった現代の日常を言い当てた言葉でもある。私はさっき全巻持っている、と書いたが実は文庫本最新刊を持っていなくて急いで買って読んだのだが、30年もやっていてテーマが全然古びていない。というより、日々、日常の演劇化の度合いが深まれば深まるほどに物語がリアルに迫ってくる。

 知っての通り、物語は『紅天女』なる幻の芝居の主役の座を巡って2人の少女が競い合うというものだが、2人がやっているのは演劇空間の中で本当の自分を探し出す、という事でそれは本来不可能に近い。しかし、そう知りつつも読み出したしたら止まらないのは、マヤと亜弓の闘いが、周囲の虚構を全て踏み越えて真実に触れようとする格闘に見えるからで、誰もが見につまされずにおれないからだ。

 私の予感ではこの物語は多分、終わらない。そして仮に、もし予定調和的な最終回というものがこの先あったとしても、読んだ人々の中で北島マヤと姫川亜弓は永遠に闘い続ける筈だ。まるで永遠に続くギターリフのように。

 と、いうわけで、ここ数日、私が囚われているのはグラミー松本のこのギターリフ、もう頭の中で超ヘビロテ状態。

 だ、誰か止めてくれ。

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漫画『アストロ球団』~アストロ・ガッツ・・だぜ

Photo_8  今日9日は誕生日である。40から折り返しているので今年34才。今、ケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースと同じだが、阪神ファンに道頓堀にぶん投げられそうなのでそれはあまり嬉しくない。

 私の密かな自慢なのはあのR&Bのオーティス・レディングと同じことだが、この9という数字、例えばジョン・レノンが自らのラッキーナンバーとしていたりとか(ジョンは10月9日生)、中国では長陽数と言って御目出度い数字とかで私も気に入っている。歓喜の歌は交響曲第9だし、好きだった馬ドリーム・ジャーニーも9枠の時は良く走った。

 しかし、日本人にとって4と9は「死」と「苦」の語呂から忌み嫌われる数字でもあって、子供の頃は良くからかわれた。9が二つ重なっているので「とことん苦しめ!」みたいに言われるのだが、その頃の私は「いいさ、オレはアストロ戦士なんだから・・・」と密かに自らに言い聞かせて耐えていた。

 何のことかと言うと、当時少年ジャンプで連載されていた漫画『アストロ球団』では世界最高の野球チームを作るために生まれてくる“アストロ戦士”は全員9月9日生まれとされていた。そしてまた体の何処かにボール型のアザがあるという八犬伝みたいない話だった。

 荒唐無稽な魔球や打法がいっぱい出てくるヘンな世界だったが、“スポ根”とは大分違う情念の濃さで面白かった。身近な若い人に聞くと数年前ドラマで実写化されていて、それは『少林サッカー』のもっと下らないやつ・・みたいに言っていた。ま、そうなるだろうな、あれを実写化したら。

 少し前の話になるが、楽天の田中マー君が18奪三振を奪うのを見て、この漫画の主人公アストロワンこと宇野球一みたいだ、と思った。変な魔球は投げないけれど今時あんなに感情むき出しで投げるピッチャーも珍しい。

 私はまだ楽天を諦めきれないでいる。それは阪神大震災の時、オリックスが優勝したような展開をこの東北のチームに夢見ているからだが、今はCSがあるので現在3位の楽天にもまだ望みはある。しかも先月は勝ち越しと、最近調子が良い。

 昨日、息子に聞くまで知らなかったのだが、明日10日は日ハムのハンカチ王子斉藤とマー君の投げ合いらしい。高校の時以来の因縁の対決である。チケットは完売らしく、こういうスポ根漫画的なノリは随分久しぶりな気がする。『ドカベン~プロ野球編』みたいな。

 原発関連のニュースは聞くたび腹立たしいやら落ち込むことばかりで魔球の一つも投げたいところだが、昨日も海洋汚染のニュースがあって、それは想像力が及ばない程の値でもうどうなるか分からない。せめて、思考停止に陥らないよう身近に出来ることをやっていくしかないが、それにしても凄い時代に居合わせたものだと、最近は怒りを通り越して呆れてしまう。

 とにかく46になった。今、頭の中にはオーティスの歌唱と有馬でのドリームジャーニーの走りと、そして田中マー君の投球のイメージが、ある。

 明日は新宿で先月終わった現場の、グランドフィナーレと称した一月遅れの大打ち上げ。

 アストロガッツだぜっ・・て、皆、知らねーか。

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漫画『鉄腕アトム』~何故、アトムは人間になりたがったのか?

1  不遜なことではなく、東京電力福島第一原発の事故直後、その収拾作業を人間に代わってロボットに作業させることはできないのか?と考えた人は多い筈だ。

 実際にフランスその他の国から提供もあったりして、私も「アシモ君って、今どのくらいまで精度が上がったのだろうか?」などを真面目に考えてしまった。

 多くの日本人にとってロボットと言えば「鉄腕アトム」だ。が、しかし、この漫画は今、日本の原子力政策推進のプロパガンダだったとして批判されることが多い。実際、昔、行った広瀬隆氏の講演でも、作者の故手塚治氏は名指しで非難されていた。

 手塚が嫌ったテレビアニメ版は別として、原作の『鉄腕アトム』は実は恐ろしく暗い物語である。そして、その物語の根底には大きく“差別”の問題がある。

Lastatom_2  最終回、膨張する太陽に向かって、それを止めるための一発の爆弾を抱えたアトムが人類を救うため突っ込んで行き、物語りは終わる。

 それは未曾有の自然災害や事故にあたって、アトムのような有り得ないロボット(人間を愛し、人間に憧れるロボット)がいなければ人間は無力なのだとする手塚の警告のように私には思えるのだが、どうだろうか?

 昨日、子供達の屋外活動を制限する限界放射線量20ミリシーベルトを巡って内閣官房参与小佐古敏荘氏・東京大学教授(放射線安全学)が辞任。それを受け国の原子力安全委員会は即座に「数値は妥当」との判断をした。

 そもそもシーベルトなる単位のイメージが私達には無くて、上のような専門家の意見が振り切られてしまうようなら、今新聞等に出ている単位と人体への影響の説明が何を根拠に言っているのかが疑わしくなる。何をもって「妥当」なのか・・・・。

 そして、ロシアのプーチン首相は日本の東京電力福島第一原発の事故への対応の遅れを批判。「日本は地震危険地帯に原発を建設した。理由は分からないが、それが彼らの選択だった」と指摘。

 何故、アトムは人間になりたがったのだろう?

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『荒野の少年イサム』とブランキージェットシティの「悪い人たち」

Wk3557  去年の正月に実家に帰った際、兄弟三人で酒を酌み交わす席で世間話がてらに私はこう言った。「昔、俺たちが夢中で読んだ漫画『荒野の少年イサム』が今、中々手に入らない」と。

 『荒野の少年イサム』とは70年代に少年ジャンプに連載されていた少年漫画で、私達が子供の頃はテレビアニメ化もされていた。私と同じ世代の人ならきっと知らない人はいない作品だと思う。

 明治期にアメリカに渡った渡勝之進がインディアンの女性と恋に落ち、生まれた赤ちゃんがイサム。母はすぐ死に、旅の途上で父ともはぐれ、ゴールドラッシュに沸くサクラメントの陽気な金鉱堀り「ロッテン・キャンプ」の男達に育てられるが、洪水でキャンプ壊滅後は強盗の一味「ウィンゲート一家」に悪の手段として天才的なガンさばきを教えこまされる。しかし、それでもイサムが悪に染まらず、正義の側に立ち力強く生きていくという、これは日本初の一大西部劇だった。

 何故、これが手に入らないのだろう?個人的には日米合作で映画化しても良いのではないか?と思うほどの名作なのに。『キャンディ・キャンディ』や『マスター・キートン』のように原作者と作画者がもめたとか言う話は聞かないし・・・私がただ見つけられないだけなのか?

 で、今年の正月に去年私がその話をしていたのを弟が覚えていてくれて、なんと!見つけたからと全巻買い揃えておいてくれた。嬉しい!早速、手にとってパラパラとめくるとあれもこれも・・懐かしいシーンが満載である。

 そして懐かしいながらもそれらの絵を見て私が一つ感慨深かったこと。それはそこに描かれている暴力描写と不条理な世界観のこと。昔はこんなの別に、普通に見てたのになあ、と思うが、今、夢中で読んでいる同じジャンプの『ワン・ピース』と比べると隔世の感がある。『ワンピース』は面白いが、やはり絶対的な性善説を基本にした物語なので、自らの悪意や暴力性に気付かされるようなことは特に無い。

 例えば『荒野の少年イサム』ではさっきまで赤子のイサムにお乳を飲ませてくれた優しい黒人おばさんが次の瞬間、虫けらのように銃で頭をぶち抜かれて殺されてしまったり、小さなイサムを守ろうとしてキャンプの男達は蜂の巣のようになって死んでいく。

 また、ひょんなことから奴隷の集団の1人とされてしまった登場人物のなかでも重要な一人、黒人のガンマン、ビッグ・ストーンが独力で解放した奴隷達は、心を通わせた小さな少年までもが隣町で凄惨な方法で皆殺しにされている。そして、怒りに燃えたビッグ・ストーンがその奴隷商人に皆の墓穴を掘らせ、旅立たせ、遠方からライフルで狙撃しながらじわじわと殺すのを当時の子供達は拍手喝采して見たものだった。しかし、だからと言ってそれを読んだ私等が暴力に目覚め猟奇的な犯罪に走る性向を身に付けるなんてことは全然無く、ただ、世界は、人間は、このようである、と無意識に学んだだけである。

              ☆

 さて、もう去年の暮れ頃の話になるが、東京都が今漫画を規制する条例を強化しようとしているとのことで、もう『ワンピース』その他の漫画が子供だけでは買えなくなるかもしれないと、息子と娘が憤っていた。性描写が特に問題視されているらしいが、それとセットになって暴力描写もしかり。           

 こういった話は何も漫画に限ったことではない。映画・テレビドラマからロックミュージックの歌詞に至るまで、セリフや歌詞の言葉狩りの問題を見れば分かるように、人間の暗部を含めたリアルな表現と言うのは今極力排除・隠蔽されている。私にはそれがかえって手に負えない問題の萌芽になっているように見えるのだが。

 こういうのは一つの言葉や一描写を取り上げるより、作品の質そのものを問うべきじゃないだろうか?現知事のデヴュー作だって男性の一物で障子を突き破るシーンがあるけど、私はあれはあれできれいな恋愛小説だと思うけど。そうでしょ、石原さん。

             ☆

 私にリアルな世界の実相というものを表現として教えてくれたのは間違いなくロック・ミュージックであるが、それも最近は完全に商業主義に毒されてしまって、聞いてざわざわとくるようなものはとんとお目にかからなくなった。    

 ↓はブランキージェットシティーの名曲。

 http://youtu.be/QwE5R_XI9Xs

この曲を初めて聞いた時はざわざわときたな。この歌もそのショッキングな内容から当時発売禁止になったりしたが、現在はどうなのだろうか?今、良く聞くと、ただ人間が“平和”を希求する瞬間がリアルに歌われている、性悪説の側からの痛い「ピース・ソング」という風に聞こえるが。

 『荒野の少年イサム』に、様々な人種の人々が小さな教会にインディアンに包囲され、戦う巻がある。中に人種差別主義者の白人の女の子がいるが、最後、救出に来た騎兵隊がインディアンを殺すのを見て、「何故、肌の色が違うだけで人は殺しあうのかしら?」と呟くシーンがある。長い戦闘の途中、篭城する教会の中では黒人の赤ちゃんが生まれたりしていて、「生まれた時はどんな人もあんなに喜ばれているのに・・」と。

 この年始、上の漫画のシーンとブランキーの上の歌の最後のリフレインが頭の中で重なった。

 そして、私は息子と娘にはくだらないもの、低俗なものに取り囲まれながらも、本当に良いものを自分で選び出せる人間になって欲しいと思う。

 で、最後に、本当は違う目的があるくせに「子供を守るため」なんてお題目で法を改正(改悪)するのはやめてくれ。

 

 PS、「悪い人たち」の詞、長いのでコメント欄にペーストしときます。

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漫画『かぶく者』~灰皿にテキーラ

Photo_4  もう先週の話になるが、朝、事務所の近くのコンビニに買い物に行った帰り、ふと見るとテレビ局の中継者が数台並んでいて、ちょっと騒然とした雰囲気だった。その時は特に気にも留めなかったが、私の今いる仕事場の前は港区の某病院で、それはつまり例の“海老蔵ボコられ事件”が起きた朝だったのだ。

 私は丁度、ジャパンカップの馬券に何を買うか考えている最中だったので、現在の海老蔵は代11代目というところから(11)ナカヤマフェスタでいくことを思いついた。しかも騎手は海老名正義で海老つながり。これはいい!!と勝手に盛り上がっていたのだが、結果は大外れで、つまりそれはダメな方のサインだったのだ。

 仕事場で海老蔵は今後、助六はできないのではないか?という話があると聞いて大笑いした。歌舞伎の助六は江戸で一番ケンカが強く色男という設定の芝居。なのに泥酔した挙句、顔まで傷つけられたとあっちゃ、もう、助六のイメージは丸つぶれである。どうせなら殴ったボブ・サップ似の26才とやらを助六にしたら良い。

 ただ、手は出さなかったとか言っても、結局、ここまでお株を下げる結果になるのだったら一発でも殴っておけば良かった、と思うのは私だけか。役者なんて所詮、河原乞食と開き直って、捕まっても憮然としてりゃ良かったのだ。勝新太郎、松田優作、萩原健一、北野武・・・私の好きな役者は皆、そんな人達ばかりで、それはそれでそれぞれに哀愁があった。

 今回、私が一番心配したのは新妻の麻央ちゃんのことである。早くも前途多難なスタートで、まさか数年先には玉緒さん(勝新の妻)のようになってしまうんじゃないだろうなあ。後援会の席で、非難は非難としてあったらしいが、彼女が挨拶すると最後は拍手がおきてガンバレコールが上がったと言うから・・・・・勝新&玉緒さん、ショーケン&いしだあゆみ以来、久々に内助の功に救われる不良少年(中年)を見た気がする。

 今回の海老蔵は世間を騒がしたことには間違いないが、“かぶいた”と言うわけじゃなくてそれが残念。どうせなら、もっと皆の心が洗われるような、粋なことをやってくれよ。

 ↑はあまりにもまんまな題名の漫画。“かぶく”ってどういうことかと、そして、歌舞伎という芸能が伝統の継承と破壊衝動の二律背反のものであることが良く描かれている。

 芝居『助六』の中に、髭の意休に足の指に挟めたキセルを勧め挑発する場面があるが、昨日のニュースで、事件の前、海老蔵は灰皿に注いだテキーラを飲めと相手に強要し、それが事件の発端であるらしいと言っていた。海老蔵、まさか舞台と勘違いしたんじゃないだろうな。

 いずれにせよ、早く治して舞台に戻れ。今回のことも“芸の肥やし”にするしかないだろう。まだまだ応援するぜ。

 それにしても、今年の忘年会、灰皿にテキーラ・・・・やる奴、いるだろうな、きっと(笑)。

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漫画『グーグーだって猫である』~Love Life

Photo_3  これはエッセイ漫画なので主人公は著者の大島弓子さんだろうし、また、登場するたくさんの猫達だとも言えるのだけど、本当は“愛”というものの正体を描いた漫画なのだと思う。それは崇高な哲学や観念や一方的な思い込みではなくて、見かえりを求めず、ただ命の温かさのそばにいて触れていたい、またそれを守り慈しみたいという純粋な欲求のことだ。そして、そのような暮らしが身体に残していくであろう記憶の積み重ねのことだ。 

 この漫画を読んで、私自身、封印していたつもりの今は亡き愛猫くんに関する様々な思い出が体中からゴボゴボと吹きこぼれてきてしまった。爪を切ってやるときの爪の先を飛び出させようとして押す肉球の感触とか、寝ている布団の上に乗って来たときの重さや潜りこんで来たときの温かさ、そして目覚めたとき、いつも頬に触れていたその毛のくすぐったさエトセトラエトセトラ・・・・。

 それらが当たり前にある日常は遠くから眺めなければ分からない点描画の一点に似て、普段は気にも留めないが、遠く離れて見るととても大きな絵になっていたりする。そして、極稀にその一点の美しさに普段から気づいている人がいて、大島弓子さんはきっとそんな人なのだと思う。

 実際に漫画第4巻の中にこんなエピソードがある。猫はどんどん増えていくが、その中でも主要な一匹であるビーが突然いなくなってしまう。どんなに外に遊びに行っていても必ず夕方の5時には帰ってきてごはんを催促するビーだが、その日はそれがない。

41d0qkhwgl__sl500_aa300_  その視線がないということだけで大島さんは異変を感じ取り、気が狂わんばかりになってビーを探す。他の猫たちも一緒になって探す。いくら金がかかろうと、毎日、納豆ごはんになってもいいからと“ペット探偵”なる高額な輩も雇って探す。そして、探すうちに動物実験に使うためにペット達を拉致する“猫取り”のこととか、近所に猫達を閉じ込めてしまう心無い家があるとかの情報を得て、その不安はピークに達する。「私はこの恐怖に耐えられるだろうか?」大島さんはそう書いている。そう、愛には恐怖が伴う。喪失と、また愛するものが不当な暴力によって傷つけられているのではないかと想像する恐怖が。

 結局、ビーは自分で戻ってくる。疲れ果て薄汚れて。勿論、猫は言葉を喋れないからその間、何があったか知る術はないのだが、このエピソードの最後にこんな言葉がある。「ビーがそこに眠っている。それだけで今までの苦しみはうそのように無い。」「何が欠けても一瞬にして崩れる日常の幸福。今ここにあるのだった。」

 私はこのエピソードに関しては漫画として読めなかった。私の場合、猫ではなく子供だったが。そして、この件には他者を受け入れ愛するということは、その対象がたとえ猫であってさえもそのような心の試練と不可分なことを教えてくれる。逆説的にそれに立ち向かう覚悟が無い人は一生愛を経験できないのだ。

 この漫画は現在4巻まで出ていて連載は継続中らしいが、私は仕事場の大の大島弓子ファンという方に全巻借りて最初から一気に読んだ。それで気づいたことだが、1巻冒頭になぜかライアル・ワトソンの“ものにも魂がある”という言葉が出てくる。そして、座布団や冷蔵庫や洗濯機の気持ちを推し量ったり、話しかけたりするシーンから始る。

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 なぜ猫の話をここからはじめるのだろう?と初め不思議に思って読み始めたが、その後、長年連れ添った猫サバの死が語られ、自身のガン体験が語られ・・・としていくうちにハタと気がついた。上のライアル・ワトソンの言葉は突き詰めると同じ地球上に発生した全ての物質は生命・非生命の区別なく宇宙の大きな循環と連鎖の中にあるので、地球を<ガイヤ>という大きな意志を持った生命体として考えた場合、それは仲間とも言うべきものだという意味が(多分)あり、これはネイティブ・アメリカンやその他の先住民たちの持っている思想・メンタリティと同じである。

 そして、この視点から物語が始められことに思いを馳せると、その後の猫たちとの話に突如コズミックな響きが加わることに気づく。誕生と死と、その間に横たわるガラス細工のように繊細な日常。洗濯機やプリンターにまで意志を感じ取る大島さんにとってはもはや猫はただの猫ではない。自身のガン体験は漫画の中ではサラリと時にユーモラスにさえ語られているが、本当は激越な死の恐怖とそれを乗り越えようとする努力があった筈で、猫達はその時、宇宙的な命の輝きと循環の象徴そのものだった筈だ。

9784041006917  猫は巻を重ねるごとにどんどん増えていくが、主要な猫は4匹である。グーグーとビーとクロとタマ。どれも大島さんの極上の愛の賜物とも言うべき可愛さだが、私はやはりグーグーが一番好きだ。そしてこのグーグーこそが大島さんの思想の“化身”とも思える猫なのだと思う。どんな子猫がやってきても威嚇せず、恐がらず、猫キスをして大らかに受け入れるグーグー。そして必要以上にかまわずに泰然自若としている。

 また漫画にはもう一つ隠れたメッセージも感じ取れて、それは「都市と自然の共存」ということ。舞台は吉祥寺で、私も長年住んでいた街なので余計親近感が沸くのだが、このようなテーマを考えるのにあの街は格好の場所だと言っても良い。考えてみれば猫は自然そのもので本来コントロール不能なものだけど、4巻の最後にはついには住処を追われた狸まで出てきて、今後の展開が楽しみといったところ。しかし、今の吉祥寺、武蔵野界隈にまだ狸がいるのか・・・目からウロコな話である。

 先日、本屋で立ち読みしていたら「<恋>は下心で<愛>は真心」という言葉に出くわした。筆談ホステスとか言う人の語録集みたいな本だったけど、それでいくとやはりこの漫画は愛の物語だ。愛のある暮らし。Love Life。大島さんがクレイジーなまでに猫=命への愛に突き進む様が心地良い。いつだって当たり前のことを迷いなく平気でやってのける人は偉大だ。

 真心という宇宙的な愛が天使のような猫達注がれている。

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