3・11から四年目~味世屋のラーメン

Cai_0435_2   昨日、久しぶりにいわきに帰省した。墓参りがてらに出かけたのだが、目的はもう一つあってそれは『味世屋』のラーメンを食べること。

2011年の正月、行ったら満員で、帰ろうとすると、なんと家の居間に通してくれてそこの炬燵で食べさせてもらい家族皆で感激したものだった。震災直後、小名浜の津波の被害を伝える動画をYouTubeで見るにつけ「あのラーメン屋さん、どうなったのだろう?」と家族でハラハラしていたが、少しして再開されたこを知りいつか必ず食べに行きたいと思っていた。

 言わずもがなだが店舗は新しくなっていて、この間、何があったのかは推して知るべし。ただ肝心のラーメンは以前のままで凄く美味しかった。帰り際「四年前に来て以来です。東京から来ました。」というと「来たらまた寄って下さい。」と言われた。あの地震と津波でもこのラーメンはなくならかった。いわきの復興の事情には複雑な気持ちもあるが、このラーメンは素直に嬉しかった。また行こう。明後日は3・11から四年目。

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うなぎの話

Photo  先日見に行った歌舞伎『東海道四谷怪談』の三幕目・本所砂村隠亡掘の場での直助権兵衛は“うなぎ取り”だった。あんなでも商売が成り立つのだがら当時はさぞ天然のうなぎがそこかしこにいたのだろう。しかし、一度に大量に取れるものでもないと思うので、当時もやはり貴重な食材だったろう。

 そこのところが気になって調べると、江戸の頃、隅田川、神田川、深川などで上物のうなぎがたくさん取れたらしい。なあんだ。しかし、江戸も初めの頃はうなぎは下賎な食べ物で、がまのほ状に串に刺したものを焼いて味噌を付けて食い「まずくて仕方のないもの」だったとか。当時の金で一串16文、1文=20円として320円ほど。そばが一杯16文だったから、つまりはその程度の食べ物だった。

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 これが天明年間(1781~1789)に醤油、味醂、砂糖等の調味料が発達し、現在の蒲焼のようなスタイルが確立すると、一皿200文(4000~5000円)とたちまち高価なものになる。翻って「忠臣蔵」の外伝的要素が濃い「四谷怪談」の舞台は言わずもがなその約80年ほど前の元禄期。つまり直助権兵衛は下賎な食い物の下賎な食材を取るのを生業にしているということになり、それを知ると彼がどんな悪党なのか、さらに主人公の右衛門がどんなところにまで身を落としたのか分かるようで場に凄みが増す。彼らの「悪」のしぶとさとうなぎの生命力が重なって、まさに「首が飛んでも、動いてみせらぁ」なのだ。

 古典の中の「うなぎ」と言えばもう一つ、落語の『鰻の幇間(たいこ)』があるが、こちらは明治期の噺なので、さすがにもううなぎは芸人(実は詐欺師)と幇間(たいこもち)が酒の肴に喰う粋な食べ物ということになっている。芸人に食い逃げされ、店に置き去られた幇間はその後、半ばやけ気味に、一緒に出す新香や部屋の掛け軸、また酒器についても「こっちは伊万里でこっちが九谷・・・」と、薀蓄を垂れながら文句を言うから、本来ならこうあるべき、といったものがすでにこの時代には出来上がっていたことが分かる。

 少し話題は古いが今週の月曜日22日の土用の丑の日はうなぎを食べなかった。私が住む日野市のある地域には昔、多摩川の堤防が大雨で切れ掛かった時、大量のうなぎがやってきて身を挺して守ってくれたという伝承からうなぎを食べないとする地域があるが、

 http://ehon.hinoshuku.com/archives/page08/post-16.php

もちろんそんな理由じゃなくて、ただ高いから。それとちゃんと薬を飲まない私は例によってまた通風気味で食を控えていたということもある。しかし、思うに私が子供の頃はうなぎなんぞは年に何度か、それこそ大事な客が来た時とか祝い事とかの日に、ありがたがって、かしこまって食べていたもので(寿司もそう)、こうした手に届かない感じの方が個人的には本来の姿という気がする。

 因みに以前、土用にうなぎを食べないとする地区の古老に「じゃ、何を食べるのですか?」と聞くと、その人は「ようするに夏バテしないように精のつくものを食べりゃいいって考えれば、やはり肉。」と言っていた。その他、全国色々で、「う」の付く食べ物ということで、馬(うま)肉、牛(うし)肉、うどん、うめぼし等の例がある。

 芝居や映画に小道具として食べ物が重要な意味を持つ場合があるが、このうなぎのように描かれている時代によって意味する「格」が違う場合があるだろう。また古典においては何を意味しているのか現在では感知できないものもいっぱいあるだろう。今まであまり考えなかったが作者はそうした細かいディティールまで気を使っている筈で、それを考えるのも面白い。

 この7月は早々ととんでもなく暑くなり、仕事もいそがしくて首がついていても動けなくなる日が多かった。暑さは少し落ち着いたが、夏はまだまだ続く。

 二の丑の日の8月3日には何を食べようか。(写真は嘉永5年(1852)の江戸前大蒲焼 番付表。幕末の頃、江戸には221件の鰻屋があったとか。)

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ごめんねナポリタン

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 初めての君の印象はというと、やっぱりあの赤いワンピースだな。時代はバブルの真っ只中で、今思えば随分グロテスクな時代だったけど、それにしたってあんな頭のてっぺんから足のつま先まで赤ずくめのスタイルの女の子なんて、当時だってそう何処にでもうろうろしてるって訳じゃなかったから、話しかけられた時は随分とどぎまぎしたのを覚えてるよ。

 あの頃、流行っていた音楽と言ったら何だっけ。マドンナ?プリンス?マイケル・ジャクソン?悪いけど80年代の音楽って、僕は全然思い入れないんだよ。あの頃、同世代の友人達は皆、『時代遅れな野郎』って僕を馬鹿にしてたけど、僕がその頃夢中になって聞いていたのは50S~70S初期までのロックやジャズで、80Sの音楽なんてこっちから願い下げって感じだったから。

 でもこの間、何処かの店で飲んでいた時、店のスピーカーからシンディー・ローパーの『オール・スルー・ザ・ナイト』が流れて来てさ、それで急にあの頃に引き戻されるような感覚に陥った。別にシンディー・ローパーを当時熱心に聴いていたって訳でもないのに、不思議だね。音楽って、時に予想もしなかったような状況に人を引きずって行って、それで勝手に置き去りにして行っちまうから、ある意味いい迷惑だよ。

 で、その時、突然に、唐突に僕は君を思い出したんだよ。それが音楽の仕業なのか何なのかは良く分からないけど、とにかくじゃじゃ馬で、どうしようもなく自分勝手で、それでいて寂しがりやだったあの頃の君をね。

 ある日、君が女性ボーカリストの中じゃシンディー・ローパーが最高だなんて言うから、僕がむきになって君にジャニス・ジョプリンを教えたことがあったろう?丁度、彼女の伝記映画『ジャニス』が公開されたばかりでさ、吉祥寺のバウス・シアターでやっているから見に行けって、君に言ったのを覚えてる。で、その次に君に会った時、君はすっかりジャニスにいかれていて『コズミック・ブルースを歌う』と『パール』を持っていたから驚いたよ。まあ、君は相当に大人びてはいたけど、実際は僕より4つ年下で、それで僕の話について行こうとして随分背伸びしていたのかもしれないな。

 君がイタリアに留学することになって、その前に会おうと言うことになって、最後に行った国分寺のパスタ屋、覚えているかな?大学から帰る坂を下りて左に曲がると、道路を渡ってすぐの所にある店。今でもあるのかどうか知らないけど、僕は当時は定食屋か立ち食いそば屋みたいなところにしか行かなかったから、随分、洒落た店を選んだつもりだったんだぜ。

 今でも覚えているけど、その店で僕はぺペロン・チーノを、君はカルボナーラを頼んだんだ。つまらない事ほど僕は何故か良く覚えているんで嫌んなっちゃうんだけどさ。で、その時、本当は僕はナポリタンを食べたかったんだ。でもなんか格好つけちゃったんだよね。その頃、ナポリタンってなんかお子チャマな印象がしてさ、年下の君に子供っぽく思われるのがきっと嫌だったんだろうな。

 飛行場のエスカレーターに消えていく間際、君が僕になんて言ったか覚えてるかい?それについちゃ今でも相当恨んでいるんだけど、君はもう長い間会えないだろう僕に向かってマジな目つきで、

『Mさんは遊んでばっかりですね。』

 って言ったんだよ。君は否定するかもしれないけど君は確かにそう言って旅立たんだ。僕がどんなに落ち込んだか君は知らないだろうな。でも、今思うと、夢があって着実にそれに向かって進んで行く君に比べ、その日暮しみたいにしていた僕だったから、その落ち込みには嫉妬の感情が相当混じっていた。

 今日、久しぶりにナポリタンを自分で作って食べた。ペペロンチーノやカルボナーラの方が逆に喰い飽きてしまってね。で、出来はと言うと、お子チャマの食い物なんてとんでもない、白ワインをちょっと入れたせいか、中々、大人の味わいだった。

 君が遠い空の下からせっせと書いてくれた手紙に、僕はついに一度も返事を出さなかった。それでその後、僕も東京の街を転々としていたから、もうお互い連絡も取れなくなっちまった。

 あのパスタ屋で僕が素直に言えなかった言葉は実はもう一つある。でも、それはもう一生言う必要がなくなった。今となっちゃ言わなくて良かったって本気で思っているよ。

ただ、今日、自分が作ったスパゲッティに向かってこう言ってみたんだ。

『ごめんね、ナポリタン』ってね。

 PS 実は白状するけど、今、僕はジャニス・ジョプリンよりシンディー・ローパーの方が好きなんだよ。まあ、人は変わるってことさ。 

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追憶の親子丼

Photo_3  親子丼。今日、家族皆の分を作ったが、上手くできたのもあれば失敗作もあって、改めて料理の難しさを実感した。子供の頃、この親子丼が私の好物ということになっていたことが一時あり、それは今は亡き祖父の思い出と繋がっている。

 私の祖父母は、去年、ヒットした映画『フラガール』でお馴染みになった福島県いわき市で、かつての常磐炭鉱・鉱夫のための“保養所”をやっていた。

 “保養所”と言っても今一ピンとこないかもしれないが、簡単に言えば大きな温泉旅館。宿泊客もあれば、何処かの会社の宴会もあり、また当時の地域におけるなかなか豪華な結婚式場でもあった。子供の頃、千葉にいた私は、夏休みや冬休みのたびに母の実家であるこの保養所に帰省して、文字通り夢のような日々を過ごした。

 特に夏休みの思い出は秀逸で、“チョットコイ、チョットコイ、”というコジュケイの啼き声で目覚め、それから夕食の時間まで、でかい建物の中や大浴場を走り回り、宴会場のマイクで歌い、食堂のテーブルで卓球をし、布団部屋でトランポリンをしたりして遊び呆けて暮らしていた。また保養所の裏には大きな池があって、あたりには食用蛙の鳴き声が響き、そこには、おたまじゃくしやらフナやらがいて、釣り糸をたらしているだけで一日を充実して過ごせてしまうのだった。

 この頃には東京からリトルリーグのチームが合宿に来たりもした。一夏その子たちと仲良くなって、練習に混ぜてもらったり、夜は皆で花火をやったりしたのは絵日記のような思い出だが、いよいよ合宿最終日になって、その子たちが東京に引き上げていく時の寂しさといったら、なかなか強烈だった。今まで一日ガヤガヤしていたものが、なんだか急にシーンと静まり返り、夕暮れには“カナカナカナカナ・・・・”とひぐらしの鳴き声がして、食堂で貰ったリボンシトロンを飲みながら、毎年、夏が終わろうとしていることを知る。

 そんな、なんとなく寂しい気持ちでいた夏の終わりのある日、私が元気がなさそうに見えたのか、突然、祖父が『ひろしは親子丼が好物だろう。親子丼作ってくっれって今調理場に言ったきたから、できたら食べろぉ。』と、ニコニコとして言った。

 何故、親子丼?と驚いたが、思い当たることが一つあった。それはかなり前に、昼食の時、何かで普段は優しい祖父を怒らせてしまい、私は怖くて顔を上げられず、ひたすら飯を無言で喰い続け、その時食べていたのが親子丼だったのだ。それでそのあまりの食いっぷりの良さに祖父は私が親子丼が好物なのと勘違いしたらしかった。

 ロビーから食堂の横を通って調理場にいく途中に和室の部屋があり、私はそこで祖父が勘違いして作らせた親子丼を汗をかきながら食べた。

 今でも親子丼というとその時の、電気をつけるべきなのかつけないべきなのか迷う部屋の微妙な暗さと、青い畳の匂い、部屋の隅に積み重ねられた座布団、壁にかけられた棟方志功の版画のレプリカと歴代首相の似顔絵の額、それとひぐらしの鳴き声を思い出す。きっと、戦時中の食糧難の時代を経験している祖父は、子供が元気が無い程度のことは好きなものでも食わせれば治ると思っていたのだろう。そんな祖父の長閑な優しさが今はとても懐かしい。

 その時、私は丁度、腹が減っているのを忘れていたような感じでいたところだったので、出された親子丼はその雰囲気とともに、とてつもなく美味かったものとして永遠に記憶に刷り込まれてしまった。

 今日、作った親子丼は今一。最初に鳥を煮る時のつゆの量が微妙に多すぎて、卵を流した時べちゃべちゃになってしまったり、火にかける時間が長すぎて、卵のふんわり感が上手く出せなかったりだった。

 でも例え有名なお店で親子丼を頼んでも、私は満足できないような気がする。

オーソン・ウェルズの映画『市民ケーン』の“バラの蕾”では無いが、私が求めているのはきっと、あの時の親子丼だけなのだ。

 そう、“追憶の親子丼”だ。

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