“松王丸の悲劇は、古今東西の悲劇の中でも、二つの信義に引き裂かれ、自己犠牲と罪を犯したという点で有数のものです。忠義などというものは存在しなくなった今日、しかし、人間が人間である限り、運命との戦いは終わることはないのです。「寺子屋」はそのことを示しています”~渡辺保著『歌舞伎ナビ』より。
昨日、新橋演舞場へ行ってきた。秀山祭九月大歌舞伎。見たのは午前の部「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)『寺子屋』」と「天衣粉上野初花(くもにまごううえののはつはな)~『河内山』」。特に『義経千本桜』、『仮名手本忠臣蔵』と並び三大義太夫狂言の一つに数えられる『菅原伝授手習鑑』の四段目「寺子屋」は何度も見そびれていて、どうしても見たい演目の一つだった。
なので今回は特に「寺子屋」。
実は以前からこの芝居は現代人が最も感情移入しにくいものなのでは?と思っていた。
恩人菅原道真の子・菅秀才を守るために寺子屋の主人武部源三は、その身代わりに寺入りしたばかりの子を殺しその首を差し出す。そして今は敵方についてしまった松王丸だが、源三がそうすることを見越して、わざと自らの子を送り込み、その首改めを誤審することで彼は恩人の子を救う。戦後、GHQが上演を禁じた演目の筆頭がこの「寺子屋」で、その禁が解かれ、戦地に自らの子を送った多くの親達が見て最も涙したのもこの「寺子屋」だったと聞く。今とは全く状況も死生観も違っている。
秀山祭(名優初代吉右衛門の顕彰とその芸の継承を目的として毎年この時期に行われる)だから、当代吉右衛門が今日の松王丸なのは当然のことと思っていたが、これは先日事故で休演となった染五郎の代役とのことだった。知らなかった。しかし、昨日の吉右衛門の松王丸はそうした経緯を意に止めさせないほどに素晴らしい出来だった。
以下、その他の配役は武部源三に梅玉、源三女房戸波に芝雀、松王丸女房千代に福助、春藤玄蕃に又五郎。
この「寺子屋」には各場面ごとに楽屋内で使われる通称がある。「寺入り」「源三戻り」「せまじきものは」「松王丸の出」「寺子改め」「首実験」が前半。で、「五色の息」「千代の出」「松王丸の泣き笑い」「いろは送り」が後半。
今回は吉右衛門の松王丸に限らず、各役の誰もが良くて、芝居の導入部にあたる「寺入り」から各場面が重なるごと、徐々に緊張が高まっていくような前半が特に凄かった。「機能」していて、各人のちょっとした仕草、表情からも目が離せないようになり、汗ばんでくるようだった。後半は「千代の出」から種明かしも含めた泣かせの舞台となるが、声芸(そんな言葉あるのか)が問われる部分。違う芝居だとちょっと金属的で個人的には違和感を感じることもある福助だが、今回の千代の「くどき」は真っ直ぐに胸に響いた。やはり前半の芝居が効いていた。
そして我らが吉右衛門。以前から書いているようにこの人は声がいい。言葉がハッキリと届く。そしてそこにきて緩急ある円熟のセリフ回しなものだから、聞いていてそれは酔うようである。思えば私が初めて見た「勧進帳」の弁慶も吉右衛門だった。その時も「判官御手」で義経に詫びる弁慶に私は泣いたのだった。
源三に息子小太郎の最後を聞く松王丸。「ニコリと笑うて」と源三。「アノ、笑いましたか」と松王丸。上に挙げた「歌舞伎ナビ」ではこの「アノ、笑いましたか」のセリフは本文にはなく、歌舞伎ならではのものとあり、明治の九代目団十郎がそれは素晴らしいかった、とある。昨日の吉右衛門も良かった。で、その後の「泣き笑い」。また泣かされてしまった。
☆
「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」は長い物語である。菅原道真に恩のある梅王丸、桜丸、松王丸、三兄弟の物語。三人三様、それぞれに自らの運命と戦うが、中でも松王丸の戦いは壮絶である。道真の世話で後の敵方藤原時平に一人仕えることとなってしまった松王丸。松王丸は孤独だった。しかし、今回見て私が思ったのはその息子小太郎のこと。父は運命と戦うが小太郎は運命を受け入れる。「寺入り」で母千代が隣村までちょっと出かける、と言った時、一度は母を恋しがる小太郎だが、それは自分がこの後、菅秀才の身代わりに殺されることを知ってのことで、その後、源三が言うように「いさぎよう首をさしのべて」「にこりと笑った」 のなら最期に小太郎は運命を受け入れたのであろう。そしてそのことが菅秀才を助けるだけでなく、父松王丸を長い孤独から救い上げる。
“親白太夫、兄梅王丸、弟桜丸、一家は当然みな道真側です。世間でも、白太夫の息子がいくら時平の家来だといって道真を裏切るのかと言っています。その中で一人、そんなはずはない、松王丸に限ってそんなことはないと言った人がいます。ほかならぬ道真自身です。人は己を知るもののために死ぬ。旧主の恩義と現在の主人への義務に引き裂かれた松王丸は、誰に理解されなくてもいい、道真一人に理解されればいい、いや道真にわからなくてもいい、歴史の暗闇で無名でいい、とにかく菅秀才をひそかに助けることが自分の運命だと思ったのです。これが松王丸の孤独の意味です”~渡辺保著『歌舞伎ナビ』P19~20より抜粋。
命は勿論大事だが、それに執拗に固執する社会は時に「生」そのもののダイナミズムを失わせ矮小化するばかりか、人の尊厳そのものをも踏みにじり省みない。私がこの芝居を現代人が最も感情移入しにくいものなのでは・・と書いたのはその事で、逆に死が生の一部であり、崇高な死が何かを生かす道であるということは近世の世のある人々とっては自明のことであったのだろう。何により生き、何により死ぬのか。
松王丸、梅王丸、桜丸は皆、それぞれ舎人(とねり)である。「寺子屋」はその昔、下級と言われる人々ががどのように人の道を守り生きたかを教えてくれ、その事が今、胸に迫る。
最近のコメント