ゴールデンウィーク 小机城 孟宗竹 

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※写真はクリックすると大きくなります。

  四月に息子と娘が出ていって妻と二人の生活になったが、それを一番実感するのはなかなか米が減らないと言う事。また今まで家族用にと買っていたスーパーのパックの鮭が、同じ値段で数の少ないのを買うようになったせいなのか身が少し厚くなった(気がする)という事。出ていってすぐは家の中がやけに広く感じられ、意識して「淋しい」と口に出さないようにしていても、お互いそう感じているのが見た目にも明らかで、切なかった。

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で、それにもようやく慣れたこのゴールデンウィーク。最初に娘が帰って来て一晩いてまた出ていった。娘は一昨年から去年にかけて重慶に留学していたが、せっかく喋れるようになった中国語の能力が落ちるのが嫌で、大学の、中韓からの留学生の寮に引っ越してそこで暮らしている。学校とインターンとバイトを掛け持ちしていて忙しそうだった。中韓の友人たちと夜ホラー映画を見る会を作ったと言っていた。また台湾のバンド五月天のライブがこの20日に武道館で行われ、それを見に行くのだとのこと。五月に五月天を見る、と自慢げだった。

 息子は一昨日(2日)の深夜に帰って来た。就職した会社の研修で名古屋にいる。文系の学部を出ているのに理系の仕事に就いたので心配していたが、なんとかやっているらしい。良かった。

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 ゴールデンウィークというと以前なら実家のいわきに家族で帰って......というのが通例だったが、何時の頃からか(特に原発事故以降)それもなくなった。今回は特にどこにも出かけず家の周辺で過ごしているが、ここ日野が生まれ故郷の子供らの帰省の様子を見て、自分たちが迎える側になったことに様々な感慨を覚えた。一番考えたのは亡き両親のこと。こんな気持ちだったのかとようやく知った。東京の大学生だった頃、ゴールデンウィークにいわきに帰っても、溜まり場にしていた店に寝泊まりして一度も家に寄らずにまた東京に帰って来てしまったことが確かあった。なんて酷いことをしたのだろうか。

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 写真は休み前半の30日に妻と行った横浜の小机城跡。孟宗竹(もうそうちく)の多い城跡で、なんでも孟宗竹という名は年老いた母に食べさせようと冬に筍を取りに行った孝行息子の名前にちなんだもので中国の故事から来ているのだとか。にょきにょきと皮を突き破って塔が立った竹が、取り損ねた、親不孝の象徴のように見え、またこれからさらに伸びていく(だろう)子供たちのようにも見えた。

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花蓮・玉里安通温泉へ行く。

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※写真はクリックすると大きくなります。

 今年の正月は台湾に行っていた。目的は湾生(日本統治時代に台湾で生まれた日本人)だった亡き父の生まれ故郷を訪ねる事。場所は花蓮県玉里にある安通温泉。(写真は玉里駅前)。一昨年、族長のような叔父が亡くなったのをきっかけに叔母二人に会ったところ、この玉里の話が出てどうしても一度行かなければと思っていた。せっかく行くのだから、と妻が台北市内の「鉄板」とも言える観光旅行も一緒にセッティングしてくれて、それは言わば豪華な前菜のようになった。

 私の会った事の無い祖父・佐々木一郎氏は1930年に宮城県石巻市から台湾に渡り、花蓮県玉里で警察官の招待所の責任者・番頭を務めていた(らしい)。そこは現在は地元で有名な安通温泉ホテルとなっている。父も二人の伯母もそこで生まれた。話は少し飛ぶが、先日、読んだ東山彰良の傑作小説「流」の中にこんな一文がある。

 “一九三〇年代に台湾先住民が日本の統治に対して武装蜂起した事件だ。手始めに派出所が襲われ、約百四十人の日本人が殺害された。総督府はただちに軍隊と警察を投入して徹底的に武力弾圧した。暴動を鎮圧したあとも日本人は報復を続け、約千人の台湾人が殺された。(第六章「美しい歌」の部分 文庫P192より抜粋)”

 事件とは「霧社事件」のこと。起きたのは現在の花蓮の隣の南投だ。勿論、ここでこの事件についての色々を問いたいのではなく、言いたいのはただ祖父の台湾行きにはそうした時代的な背景・要請があったのだろうと、ぼくが勝手に想像したと言う事。だが、それは当たらずも遠からじな想像だと思う。

 前置きが長くなったが、台北市内のホテルから玉里に向かったのは5日の早朝。AM6:17分の電車に乗るために家族皆で5時に起き、タクシーで台北駅に向った。

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当日は生憎、天気が悪く、車窓の風景は暗く打ち沈んだ蘇鉄と田んぼの連続だったが、もし季節が違って快晴であったなら、水を入れた水田に青空が映り、それはそれは南国的な景観であったろうと少し残念に思った。そしてもう一つ。電車の中は冷房が効きすぎていてとても寒かった。短い滞在スケジュールの中、台北からの日帰り旅行なので、やれる事と言ったら食事して風呂に入るくらいしか無いのだが、帰りの電車も冷房がこの調子だと湯冷めしてしまうのでは?と、行きの道中からしてすでに心配になった。だが、そんな思いもよそに妻、息子、娘は連日の台北での市内観光に続く早起きが効いたのか、眠る、眠る、眠る。話し相手もいないので仕方なく耳に入れたウォークマンのイヤフォンから聞こえてきたのはボブ・ディランの『サンダー・オン・ザ・マウンテン』。山にかかった濃い霧が時折、解けた。

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 実は台湾に来てからずっと野鳥を見ていた。台北市内にいても例えばホテルの窓から外の街路樹を見ると確かにいるのだが、日本のスズメのように路上に舞い降りてきたりとかあまりしないようで(たまたまぼくが出くわさなかっただけだと思うが)、いるのは分かっても何の鳥なのか分からない。去年、四月、中国の重慶に行った時、やはりホテルの窓からたまたま撮影した2種類が、それぞれ日本では中々見られない鳥であることが後日分かって、以来、味を占めて大きな移動をした際には気にかけるようになった。

 この電車からも何匹もの鳥が空を行き交っているのが見えたが何なのか分からなかった。車窓からチャチなデジカメの望遠を最大にして目で追うが無理。 諦めたが、とある駅に停車中、ふと外を見るとホームの下の線路脇の砂利の上に黒い鳥が一羽、歩いているのを発見する。すかさずパチリ。液晶で確認すると何かのゆるキャラのように見えて一人笑ってしまった。去年、重慶で見たクロウタドリだと思う。(多分)。

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 電車は予定通り9:16に、玉里に着いた。月台(プラットホーム)の柱に客家花布。

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 旅行中、いつもはホテルで済ませるところを、その日は早朝に出発したので全員朝食がまだだった。着いたら駅前で何か食べようと当初は思っていたが、皆で話して、バスで安通温泉ホテルにすぐに行き、そこで食べようということになる。ネットの情報を見ると宿泊しなくても食事と風呂はOKと出ているとのこと。だが、この決定が後の悲劇?の始まりに。

 娘が駅の従業員にバス停を聞き、少し待っての出発。停留所の手書きの時刻表には安通に行く1137便 光復―富里号はAM10:00となっているが、買ったチケットにはAM10:20とある。しかし、時刻表にAM10:20発のバスなどなく、何かの間違いだろうと誰も気にしなかった。これもさらなる悲劇に拍車をかけることになった。

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 到着した場所はただ「安通温泉」と看板がある二車線の道路脇。降りたらすぐホテルと全員が思っていたので面食らう。よくロードムービーやアニメのシーンで、予想外の風景で降ろされ、土煙を上げ走り去るバスに置き去られる主人公みたいなシチュエーションがあるが、文字通りその状態。

 皆、空腹なところに小雨までちらついて、その上、ここからどのくらい歩くのか検討もつかず、一挙に雰囲気が悪くなる。しかし、突っ立ってるわけにも行かず、皆で歩き出すことに。昔、アメリカを放浪した際に取った杵柄で、よっぽどヒッチハイクしようかと考えたが・・・止める。父は良く家から学校までの長い距離を歩いて通ったと話していたから、ぼくらにも歩け、ということか。そして、こんな状況にも何か意義を見出そうと周りを見渡すと、またしても目につくのは鳥、鳥、鳥。社会人野球の選手だった父は学校の登下校中に鳥を捕まえようと石投げをして、それで肩が強くなったと言っていたっけ。今度も写真に収めようと何度かシャッターを切るが不首尾に終わる。

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 歩く。日本にいる時の習慣で道路の左側を歩いていると、対向車が凄いスピードでやって来て、右側を歩いた方が良いと渡る。しばらく行くと道路脇の斜面に農家があり、そこで一人の老人が手を振っているのを見つける。台湾の場合、ご高齢の方の方が日本語が話せる可能性が高いと思い、意を決して斜面を駆け上がり、話しかけるがやはり通じない。先に行ってしまった中国語が話せる娘を呼び戻し、せめてここから徒歩であと何分くらいか聞いて貰うと、20分、だとの事でホッとする。その後も途中、“2時間”の聞き間違いでは?・・・などと疑心暗鬼なったりしながらも、ようやくホテルが見えてきて安心する。ほどなくしてAN TONG SPRING HOTELに無事到着。やれやれ。

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  「夜だけ?」
  「そう、夜だけ」。
 
 これが二つ目の悲劇?の始まり。着いたらすぐ食事、と、皆、それだけを励みに歩いてきたが、着いてフロントで娘に聞いて貰うと、確かに食事だけでもOKだが、それは夜だけの事だとか。途端にまた雰囲気が悪くなる。どうしようか?皆で喧々諤々になる。するとホテルに宿泊しこれから帰路に着こうとしている年配の女性の一団の中から、一人の女性がやって来て、片言の日本語で話しかけてくれる。状況を説明すると、他の方達も集まってきて色々とアドヴァイスをしてくれたが、結局、「フロントでタクシーを呼んでもらい、また玉里駅前に戻れば?」と言うのが大方の意見のよう。が、せっかくここまで歩いてきたのに、それはしたくない。ふと見ると道路を挟んだホテルの対面の看板に「食事」の文字がある(↑一つ目の写真の「富田錦」)。

 先の日本語が話せる女性が率先して店のお姉さんに色々と聞いてくれたが、なんでも作った料理を出すのではなく、店のものを買ってここで食べるのがOKなのだとか。いわばイートイン。お姉さんが店のカップ麺を指さす。完全な個人商店で家と店が一体になっているような感じのお店。お湯は沸かしてくれるらしい。謝謝。でも、ここまで来てカップヌードルかぁ!・・・口や顔には出さないものの、皆の心の中の落胆の叫びが聞こえるよう。だが、親切にしてくれた人々の手前、そうすることにする。しかし、この事がぼくに一つの決心を促すことになった。

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 実は歩いてくる道すがら、帰りの電車の冷房を心配して、風呂には入らなくてもいいや・・・という気になっていたのだ。ホテルの食事をして、周りの風景を写真に収めればそれでいい・・・そんな風に思い始めていたが、食事がカップ麺だった今、ここまで来て温泉にもつからずでどうする!という気になる。撤回。見ると、さすが分かりやすい我が家の面々、カップ麺であれ、空腹が収まると途端に落ち着いて先程の空気が嘘のように和やかな雰囲気になる。人、衣食足りて礼節を知る。誘うと息子も入るという。

 通訳を娘にばかり頼っていてはいけないと思い、筆談でなんとかしようとフロントで“我欲、唯湯屋・・・”みたいなことを適当に書き始めると英語で応対される。そうだよなあ、忘れていた、英語。入浴のみは250元。小さなタオルとミネラルウォーターが1本ついてくる。

 そして案内され脱衣所で服を脱ぎ周りを見ると、ゲッ、他の客は皆、海水パンツを付けている。もしや、ここはそういうスタイルでしか利用できない施設なのでは?と思い、もう一度フロントに戻り聞く。「Japanese style OK? 」「Japanese style OK! 」。上はネットで拾ったこのホテルのスパ施設。パンツを着用していた人達はつまりここの利用者で、Japanese styleは建物の奥にある。そりゃそうだ。Japanese styleの風呂は昔の古い銭湯のような感じ。そしてJapanese styleはぼくと息子だけ。浴槽が熱いのとぬるいのと二つあるだけのシンプルな造りだがお湯が良い。台北のホテルはユニットバスで主にシャワーだけ利用していたから、数日振りに湯に肩までつかりしばし陶然となる。いわきの父の墓前から持って来た玉砂利の小片も一緒に入浴。親父、帰ってきたよ。

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 カップ麺とは言え食事もし、お湯にまでつかりもすると、人は前向きになるらしい。風呂から上がると、さっきのフロントの女性に、つたない英語ででも自分とこの温泉との関係を説明してみようとの気持ちなっていた。しかし、フロントに戻ると、先程、英語で対応してくれた女性は居ず、居たのは二人いた内のもうお一方。「きゃんにゅうーすーぴーくいんぐりっしゅ?」と聞くと頷くので、自信満々(?)の英語でぼくは話続けた。「わんすあぽんなたいむ、まいぐらんどふぁーざー、わず、わーきんぐ あと ひあ。あと じす すぱ」。「あと ないんてぃーんさーてぃず。あばうとないんてぃいゃーずあごう。」。若い女性スタッフは初め怪訝な顔をしていたが、ここぞとばかり娘のスマホに入っている祖父の写真を見せると驚いた様子。

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 台湾旅行をするにあたって、父の墓参りがてら、いわきの伯母の家を訪ね、きれいにアルバムに貼られていた祖父の写真を娘が撮ったのだった。古色蒼然としたセピア色の写真の祖父はハッピを着ていて、合わせの部分に玉里安通温泉とはっきりある。驚いた若いスタッフは早速、経営者らしき女性を紹介してくれた。経緯を話すと、その昔、父や叔母たちが暮らした日本家屋は今も残っていて、なんでも日本統治時代のドラマや映画の撮影のために使われたりするらしい。「見れますか?」と聞くと「もちろんです。案内します」と上手な日本語で答えてくれた。行く途中の壁に当時の建物の様子を伺える写真が額装してあった。これ。

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  そして、現在。

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 建物には縁側があり、それには慨視感があった。そこに座って撮った祖父とまだ小さい父の写真を見たことがあるように思う。1989年、父は亡くなる時、昏睡状態のまま鼻歌を歌い始めた。家族の誰もそのメロディが何か分からなかったが、父の姉に当たる叔母だけがそれが玉里小学校の校歌だ、と分かった。生前、父は台湾での話を良くしてくれたが、あからさまに望郷の念を語ったことは無かったので驚いた。それ程までに父が帰りたかった場所に自分が自分の家族と今いることの不思議。何より息子、娘と来れて良かった。

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 そして最後に猫のこと。年末にいわきの伯母を訪ねた際に聞いたところ、叔母にはこの玉里で一緒に育った猫がいたとのこと。叔母が生まれた時、祖父がまだ目も開かない状態の子猫を貰ってきて、文字通り乳を分け合ったのだと言う。叔母が虐められると相手に飛び掛かり、調理場で働く女性たちが歌を歌いながら仕事をしているとニャアニャアと鳴いて、歌い終わると鳴くのを止める。当時、皆、「あの猫は自分が人間だと思っている」と言って笑ったそうな。

 だから日本家屋を見せて貰ってロビーに戻った時、一匹の猫が現れ、まとわりついてきたのに驚く。それは80年前の時空から迷い込んで来たように見えたから。単にここで飼われている猫なのかもしれないが、ぼくにはそう見えた。でも案外、本当に無計画に旅をする、飼い主のこの末裔たちを笑いに来たのかもしれない。それともじいちゃんがあいさつ代わりによこしたか。

 その後はタクシーを呼んでもらって、玉里駅まで戻り、駅前の食堂でやっと食事らしい食事をした。店のおじさんが陽気な面白い人で、帰りの電車の時間近くまですっかり店に居座ることになった。サービスで色々なものを出してくれた。もし、また来たら絶対に立ち寄るから、と言って店を出た。本当にまた来ようと思った。

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玉里麺。

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おじさん。

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 これが、この正月の出来事。いい旅だった。春になったらあの玉砂利をいわきの墓に返しに行こう。


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高幡不動の紅葉

 散歩がてらに高幡不動に行ってきた。紅葉がキレイだった。

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Good bye 、冷蔵庫くん。

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 家の近くに新しいスーパーが出来て、開店記念セールでハーゲンダッツのアイスクリームが安かった。先日それを買ってきて風呂上りに楽しみに食べようとしたら、あらら、溶けてブヨブヨになっている。なんとそのタイミングで冷蔵庫が壊れたのだった。以前も似たような事があり、様子を見ていたら症状が改善されたので騙しだまし使っていたが、今回はついに復帰しなかった。それで昨夜、新しいのを買いに行って、今日、配達と古い方の引き取りがやってきた。驚いたのは引き取りに先立ち妻が最後の掃除をしながら見ると、壊れた冷蔵庫の製造年月日は1984年。33年前。

Img_3113 自分はまだ上京する前で、郷里のいわきにいた。ジョージ・ウォーエルが小説に書いた1984。スティーブ・ジョブスがIBMとの戦いにMacintoshで挑み、伝説のプレゼンをした翌年の1984。日本ではチェッカーズの『涙のリクエスト』がヒットしていた1984、そしてブルース・スプリングスティーンのあの『ボーン・イン・ザ・USA』がリリースされたのが1984だ。

 今PCに「冷蔵庫の寿命」と入れて検索すると、だいたい10~15年、と出てくるが、この冷蔵庫はその倍近く生きて?仕事したことになる。娘が生まれたばかりの時、貧しい若い夫婦に近所の電気屋さんが見るに見かねて中古品をメンテナンスして安く売ってくれた物で、その時ですでに13年選手。以後、20年、我が家にあった。人間で言えば何歳だろう?と、愚かにも電化製品を見て考えてしまった。

 妻曰く完全に使えないのは冷凍庫で、他の部分はまだ少しは冷えるのだとの事。妻は「直せばまだ使えるかもしれない」と、引き取り業者が廃棄ではなくリサイクル、という点に最後まで望みを託していたが、ぼくは知っていた。フロン使用なのでそれはもう無いということを。だが、もしも“昭和の暮らし”のような展示がある博物館にでも置いてもらえたら・・・と、ぼくも最後に儚く祈った。そして長年一緒に暮らした大型の電化製品って、まるでロボットのようだと思った。今日の午後はまるで『ロボコン』の最終回みたいだった。

    で、最後に、スプリングスティーンの「ボビー・ジーン」の歌詞になぞらえて、 I miss you baby, Good luck ,Good bye 冷蔵庫くん。長い間、ありがとう。

https://youtu.be/hWAkBrSEh3I

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登戸研究所資料館の見学会に行ってきた。

 昨日、明治大学平和教育登戸研究所資料館の見学会に行ってきた。            

http://www.meiji.ac.jp/noborito/mean/index.htm

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 写真は風船爆弾。以前、郷里のいわきに帰省途中に立ち寄った五浦海岸で「風船爆弾放流地跡」なる碑を見たことがあるが、自分はもっと単純なものを考えていた。

http://penguin-pete.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_da7f.html

 仕組みを聞いたら高度維持装置など意外に精巧に作られていて驚いた。旧日本軍はこれで爆撃による成果を上げようとしていたのでは勿論なく、ウィルス兵器を使おうとしていたのだとか。同種のカウンター攻撃を恐れて実際にはウィルス兵器は使われなかったものの、それでもこの風船爆弾は約1000発がアメリカに着弾していて死者も出している。昨日、見学者の中には少女の頃この製造に携わったという方がおられ、聞いている色々な話がいきなり身近に感じられた。  

 誘われるままにどういう会なのかもあまり知らずに行ったのだが、資料館館長・山田朗先生の解説は、ここにこの施設が作られた経緯や地理的環境の話から始まり、次第に戦後史のミステリーにつながるような内容で思わず引き込まれた。スパイ兵器、対人毒薬などコワい話もあったが、自分が一番興味をひかれたのは贋札作りに纏わるお話。そんなこともしていたとは知らなかった。

 負の遺産を活用し、戦争の愚かさを立体的に考える良い企画だった。チラシを見ると見学会は12月にあと2回予定されている(2日と16日)。興味がある方は是非。

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デニス・バンクス氏死去 R.I.P

 去る10月29日にデニス・バンクス氏が亡くなった事を、11月1日の弟のフェイスブックの記事で知りました。その日、日本は十三夜で、東京でもきれいな月が見えました。大学の頃、仲間と企画したイベントを通して彼を知り、後日、バイトしていた学内の語学教室まで恩師が連れてきてくれ直接お会いしたことがあります。R.I.P。

 http://www.chunichi.co.jp/s/article/2017103101001400.html

 http://blog.goo.ne.jp/au…/e/34f48aa7b448a450922314faff70ce3b

  昔 インディアンは花と遊びながら
  光る命の意味 花に学んだ
  花に学んだ

  俺とこの星との歌が歌えるまで
  夢はみちてひいて くりかえすだろう
  くりかえすだろう   

          作詞 KURO&大塚まさじ 歌 加川良

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谷川俊太郎&Divaの朗読、ライブを聞いた。

 台風接近中の最中、家から近い日野市七生公会堂に詩人・谷川俊太郎さんの朗読&Diva(ご子息の谷川賢作さんのグループ)の歌のコンサートに行ってきた。谷川さんの朗読を聞いて干しシイタケが水に戻されたようなそんな心持になった。アンコールで『百三才になったアトム』を読んだ後に『鉄腕アトムのテーマ』(作詞/ 谷川俊太郎)と来て、何故か涙腺決壊。大雨の中帰ってきたが心はスッキリしていた。

 

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中国の古いオカリナ

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 これが何かお分かりか。実は娘が先日また重慶に行っていて、一昨日、帰ってきたのだが、これは四月に自分が行った時に知り合った若いカザフスタンの友人達に託されてきた物の中の一つで中国の古いオカリナ。シュン(またはケン)という(らしい)。6300年の太古の昔からあるものだとか。でも簡単には音が出ない。

 最初「本当に笛なのかしらん?」と思う程だったが、ふーふーやっていると何回かの1回にとてもきれいな音が出て、今はその1回を楽しみにふーふーやっている状態。本当に上手な人の演奏はどんなのだろう?とYouTubeを見ると超絶的な演奏がいっぱいあって愕然とする。こんな風にいつか吹けるようになりたいなあ・・と夢見るが、ドレミ・・・のような音階を出す運指すらも分からない。吹けるようになりたいという思いもある一方、楽器としてとても美しいのでコレクション欲も掻き立てられる。元々は西安あたりの発掘の出土品だったらしく、ぼくの仕事を考慮しての贈り物だったのならなお嬉しい。穴の数は色々あるようで分からないことだらけ。誰か吹き方が分かる人教えて下さい。

↓は分かりやすいところで映画「天空の城ラピュタ」のテーマ「君をのせて」をこれで吹いている画像。穴の数が多いやつのように見えるが・・・良い。

        https://youtu.be/AUOp-TjqKOo

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ライヴ・イヴェント  NAKED FOLK SINGERS-ギターをとって弦を張れ!中川五郎×三浦久 10・08 下北沢ラ・カーニャ

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  うたうことば

 「歌は歌われるべきものであり、読むものではない」。とはボブ・ディランのノーベル文学賞受賞記念講演の中のことば。しかし、ただでさえヒアリングの落第生だったぼくにとって、海の向こうの歌を聞くことは70%くらいは聞くものであっても、30%くらいは読むものだった。特にボブ・ディランやブルース・スプリングスティーン、レナード・コーエン等々、詞やメッセージに重きを置くアーティストの場合には尚更。そして彼らのうたを聞くとき、その「聞く」と「読む」の比率は時に拮抗してしまうことさえあったと思う。  

 中川五郎さんと三浦久さんはフォークシンガーであり、また共に歌の翻訳者でもあるので、今回の受賞に際して世の中が(そしてディランが)見せた戸惑いも、逆にその受賞の正当性も十分知っておられるだろうと思う。「私が書いているのは文学なのか?」と自問してディランは言うが、自らもステージに立ち歌うこの翻訳者二人も、こう思ったことはないだろうか?今訳しているこのことばは文学なのか?歌なのか?と。

 白状するとぼくがお二人の歌を聞いたのは、その訳業に親しんでから随分と後のこと。長い間、五郎さんも三浦さんもぼくにとっては歌の翻訳者としてあった。だから初めて二人の歌を聞いた時のストレートに言葉が耳に届く驚きといったらなかった。ディランやスプリングスティーンの歌を介してぼんやりと見えていたものが突然、ハッキリ姿を現したような、そんな感じがしたのだ。  

 五郎さんの「トーキング烏山神社の椎の木ブルース」をライブで聞いた時、ぼくはディランの「ハッティ・キャロルの寂しい死」等のプロテストソングを初めて理解した。また三浦さんの、市井にいる(た)人々の姓名が出てくる数々の物語風の歌を聞いて、スプリングスティーンのフォークアルバム『ネブラスカ』や『ゴースト オブ トムジョード』の中の歌たちが、海の向こうの人たちにどのように聞こえているのかを教えられた気がした。  

 「トーキング~」を聞いて、後日、僕は烏山に例の椎の木を見に行った。そして三浦さんの「カムサハムニダ イ スヒョン」を聞いて新大久保駅のホームに立ってみた。どれだけ時を経ても決して許されない差別への抗議の歌が、真昼の神社に静かに立つ椎の木の中にあった。また一人の青年が示した勇気を讃える歌が、電車が入ってくるJR山手線のホームのざわめきの中にあった。もしかしたらぼくらを取り巻いている風景、世界、それ自体が「歌」なのかもしれないとその時思った。  

 「アウトローは正直でなければ生きていけない」、「回り道をしない人生に何の意味がある?」「空ゆく鳥は空の鎖から自由だろうか?」・・・・ディランの歌にはその一行で人の生き方を変えてしまうようなフレーズがいっぱいある。それに比べると「歌は歌われるべきものであり、読むものではない」という、歌ではない彼の講演の中の言葉は一見ありふれている。でも上に書いたように「歌」の事を考えると、そのことばは違う意味を持って響いてくる。そして、「歌=フォークソング」としても良いのだが、五郎さんと三浦さんはそのようなフォークシンガーで、この不穏な時代に二人の歌を聞き共に歌うことは、それに対する一つの処方箋のように思うのだ。  歌の翻訳とは詰まるところ、一緒に歌うということではないだろうか?二人はずっとそれをやっててこられた。ぼくらはただそれを読んでいただけなのかもしれない。今こそぼくらも一緒に歌う時なのだ。Sing !

http://www1.ttcn.ne.jp/lacana/live/1212.html

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霧ヶ峰に行っていた

 しばらく仕事で長野の霧ヶ峰に行っていた。

 緑に埋もれた朽ちたワゴン、オートレース場の周回音のように耳から離れない蜂の羽音、塗装のはげた鉄の窓枠に分割された青空。去年、壊したスズメ蜂の巣にヒナがいて、毎朝、番の鳥がせっせと餌を運んでいた。

 蛾と蝶の違いについて考えた。

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 宿は諏訪湖畔。昔、諏訪湖マラソンを走った時に訪れて以来。朝と風呂上がりの夕暮れに散歩するのが日課だった。風が気持ちよかった。

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