『Black Bird』のち『PS,I love you』

 今日たまたまネットで、肉体は滅んでも魂は不死で、亡くなった人は様々な形で残された人にメッセージを送っている、ということが書かれているブログを読んだ。

 方法は様々あるようだが、中に音楽を使うというのがあって、例えば亡くなった人のことを考えている時ラジオからその人が好きだった曲が流れるとか。。。そんな事。そしてそのブログにはそれをただの偶然と考えてはいけないのだとあった。それは故人が自分がいつもそばにいると伝えようとしているのだから、と。

 へえ、そんなもんかい、と思いながら今日の夕方、仕事から一度帰宅して、冷蔵庫に足りない食材を買おうと散歩がてらスーパーに出かけた時の事。普段、そのスーパーは主に店オリジナルの曲が店内BGMとして流れていて、たまに違う曲が流れているという感じなのだが、自分が店内に入った途端、流れてきたのはビートルズの『Black Bird』だった。

 この曲は妻の葬儀の出棺の時にかけた曲。一時退院してきた折、コロナ下だったので何処にも連れて行ってやれず、何もできず、ぼくらはどうしていてかというとビートルズのCDを車に満載し、夜毎あてのないドライブをくりかえしていたのだった。『White Album』を全曲通して聞いた夜があって(大雨の中のドライブだった)、その時、彼女が「ビートルズの曲の中では『Black Bird』が一番好き」と言っていたので葬儀の時はそういうことになった。そんなことを思い出してやや呆然としていると、次にかかったのはやはりビートルズの「PS,I Love you」。そしてその後、何事もなかったように店オリジナルの曲になった。

そのほんの数分間。

ぼくは魂の不死を理解した。そして妻が発病して以来、初めて安堵の笑いが込み上げてきた。また「ふっふっふっ」と彼女が得意げにしている時の独特の笑い声も聞こえてくるようだった。

 分かったよ、あさチャン。

 

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武相荘(ぶあいそう)に行った。

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 昨日、東京町田市にある旧白洲邸、武相荘(ぶあいそう)に行った。現在では開発が進み周囲は開けているものの、かつては人里離れた農村だった風情を今に残す良い場所だった。なにより些細なところに会ったこともない白洲次郎・正子夫婦の気配が感じられるようで良かった。邸はアメリカとの開戦時、敗戦を予見した氏が古い農家を買い取り改築したもの。今はミュージアムになっていてレストラン、カフェもある。

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 ミュージアムには様々な展示があったが中でも
1951年9月7日、吉田茂が行ったサンフランシスコ平和条約受諾演説の原稿を興味深く見た。初めそれは外務省とGHQが作成し「占領が良かったおかげ」のように米国に媚びる内容でしかも英文だったのを、一見し激怒した次郎が急遽、自らの手で日本語で書き直したもので巻物風。アメリカ記者からは「トイレットペーパー」、日本の新聞でも「不思議な勧進帳」と紹介されたそれに、氏の生きざまの一端を見る思いがした。比較するのは全くヘンだがケルアックの「オン・ザ・ロード」の原稿と言いこれと言い、ある熱情を持って文章を書こうとすると皆この形になるのか、という感想を持った。

 昨日はやっと少し涼しくなったと思っていたところ少し湿度があったせいか邸の周囲には蚊が出て、喫煙所のベンチところには"ご自由に"とキンカンが2本置いてあった。そんな気使いにも感じ入った。

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天津へ。

 先日の火曜日(27日)に娘が天津に旅立った。今度は2年半。3年前、重慶に1年留学した時ほどではないにせよ、やはりがらん、とした気持ちがしていたここ数日。

 天津がどんな場所かについて娘は「北京が東京なら天津は横浜」と説明してくれたがネットで見ると天津はかつてイタリア租界があったりしたせいか確かになかなかお洒落な街並だ。「天津というと甘栗と天津飯だな~」と娘に言うと、栗は名産地だが天津飯というのは日本発祥で当の天津にはないとの事で目からウロコ。

 因みに最近よく目にする台湾ラーメンは名古屋発で台湾であれは名古屋ラーメンと言われている、という小ネタとともに教えてくれた。餃子をおかずにご飯を食べる日本人の食習慣も中国人にはなかなか衝撃の光景なのだとも。

https://rocketnews24.com/2012/03/24/194823/?fbclid=IwAR1g47DRGtK9rdKlneHeGgk4dJzwuyXq6KLPQ9tpiB_yWmr-RX4gThe21vk

 で、今日の日曜日の朝、スマホのWechatにテレビ電話(と言うのかな)があった。なんかすぐそばにいるようで拍子抜け。元気そうだった。今度のルームメイトはエストニアの子で、前回重慶にいた時のルームメイトは回教徒だったが今度はロシア正教の信者さんとのこと。彼女は毎日曜日朝は北京にある教会のミサに出かけるので、一人でいる毎週この時間はこうして連絡出来易いと言っていた。

スマホで寮の窓に広がる天津の街の風景を見せてくれたがきれいだった。いるうちに必ず天津に行く、と告げると、娘があまりに流ちょうに中国語を話すので"両親中国人説 "が友人たちの間で言われているのだとか。父ちゃんがニイハオとシェイシェとハオチーしか言えなかったら、驚くだろうな。頑張らなきゃ。

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イノカシラフラスコモを見に井の頭公園に行ってきた。

 かいぼり(池の水を抜いて泥をさらい、天日にあてること)をしたことによって絶滅危惧種となっていたイノカシラフラスコモなる「藻」の一種が約60年ぶりに復活して、今、井の頭公園の池がモネの池のようにキレイだと聞いて、先日、行ってきた。
 モネの池のようかどうかは知らないが、確かに美しい。大雨の後の晴天の朝に行ったので、空気も澄んでいるようで気持がよかった。願わくはずっとこのままに。


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八年ぶりの実家。

 原発事故のため弟家族が山形に移住したため貸家・空き家にしていた実家をまた使えるようにすると言うので、昨日、いわきの家の庭の片づけに行ってきた。通電し、水も使えるとか。家財道具は一切なく、先乗りしていた弟家族も皆、寝袋を持ち込んで屋内キャンプのような様相だった。

 自分が到着したのと入れ違いに弟家族は出かけたので、その後、一人で伐採され放置されたままになっている木片や枝の片づけをした。昔は生前の母が花壇を作ったり弟が野菜を育てたりした割と広い庭なのだが、8年間ほぼ手付かずだったので当然の事ながら荒れている。でも2、3時間ほど作業すると荒れたなりにある一角がすっきりとして満足感があった。自分が子供の頃、この庭には父のゴルフ練習用のネットがあったが、自分や弟はそれを野球のバッティング練習に使った。ティーバッティングやトスバッティング。そして、時々、近所のともだちが集まってそのネットの前をホームベースにして三角ベース的な草野球の試合すらした。そんなことを思い出した。写真は去年の春、庭だけ訪れた時に撮った群生した水仙。

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 仕事していると、普段、無人の場所に人がいるのを珍しがっているかのようにカワラヒワがやってきて、ずうと良い声で鳴いていた。家は玄関口に“売家”の表示が掲げられたままで、ここをこうして使えるのがこれからずっとのことなのか、買手が見つかるまでの一時的なもなのかは分からないが、頻繁に訪れてのんびり庭づくりするのは良い過ごし方だと思った。自分はスマホ使いではないしPCもないがそれで良い。寝袋とラジオと好きな本くらいを持参して、火は使いたくないので湯沸かしポットでも持って来ればよいか。風呂は近くに良い温泉の施設がいくつもある。あと酒があれば夜はぐっすり眠れる気がする。

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 昨日はその後、遅い昼食のついでにいわきグリーンスタジアムまで行き、昔の炭鉱のチーム「オール常磐」のユニホーム等を見た。そういえばこのスタジアムで一度もゲームを見たことがない。この数年、家がなかったせいでいわきに来ても叔母の家に泊めてもらったり、日帰りの墓参りだったりしたので腰を落ち着けていたことがなかった。近くプロ野球のイースタンリーグの試合がある筈。観に来ようか。このグリーンスタジアムの前身は炭鉱チームの練習場だった浅貝球場というのがあり、そこも個人的に思い出のある場所だが、その話はいずれまた。このブログといい、実家の家といい、完全にあきらめたら戻ってきて、そして、どちらもこれからの使い方、付き合い方を考えているところ。

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THE SPEED BALLSと塩屋埼灯台に行った。

 いわきのライブハウス、バロウズでThe Speed bollsとThe Stone Rollers のライブを見た。両バンドとも少なからず個人的に関わりのあるバンド。ず東京に出てきてバンドの真似事をし、仲間とオリジナルソングの比べっこのような事をしていたその頃、法政大学R&Bsoseityの面々と出会ってぼくは衝撃を受けた。彼らの、その黒人音楽への愛情の深さと熱量の大きさに。

 

 彼らはオリジナルソングなんて作らなかったし、若い頃にありがちの「プロのなりたい」のような野望が全く無かった。あるのは愛する音楽を愛すべき仲間たちととただただ演奏する喜びだけ。そんな情熱を奇跡のように真空パックしたのまま結成30年のSPEED BALLSの音楽が人の胸を打たない筈がなく、土曜日のいわきでの初ライブは素晴らしかった。カッコ良すぎてビビった。

 

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※写真はクリックすると大きくなります。
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そしてその対バンの、こちらもミック・ジャガーパフォーマンス歴30年(以上?)の高淳を擁するStone Rollers。いぜれにしても一つのジャンル、スタイルを徹底して貫くと、それは一つの生き方になるのだと見せつけられたような夜だった。実現してくれた上野夫妻と関さんに感謝。また両バンドのメンバー全員、映像担当の坂本さんも、ありがとう。楽しかったです。演奏に夢中になり過ぎてあまり写真を撮らなかった(いい写真が無い)。写真は昨日、皆で行った塩屋埼灯台とそこからの眺め。こちらもいい時間だった。

 

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劇団民藝の「時を接ぐ」を見た。

 劇団民藝の「時を接ぐ」を見た。八月の酷暑の最中、妻の知人から手紙が届き、なんでもその方のお母さんの生涯が劇化されこの秋に公演があるとのことだった。そのお母さんとは戦前の満映(満洲映画協会)で編集技師として活躍した岸富美子さん。満洲国崩壊後も中国に残り、かの国の映画人に技術を伝え、無名のまま今日の中国・アジア映画の礎となった方だとか。

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 劇は彼女のその波乱の生涯を描いたもので、今日は公演最終日ということもあって、手紙をくれた知人夫婦とも期せずしてお会いできた。ということは劇中の登場人物(主人公の娘さん)から途中休憩時等に直接解説が聞けるオマケつきだった、ということ。

 広告の裏に年老いた主人公が誰に見せるでもなく書いた回想録を娘が見つけワープロで清書し、ノンフィクションとして書籍化する件を見て(聞いて)、自分もその昔、中国にいたという今は亡き祖父母に当時の話をちゃんと聞いておけばよかったと激しく後悔した。

 この夏は満蒙開拓団の資料を一部自治体が破棄、または未整理で放置したままとの報道があり暗澹たる気持ちになったが、その一方でこんな風に今になって明るみになる歴史もある。劇中、岸富美子さんが編集に携わったという中国映画が幾つか出てきて、それらを見てみたいと思った。そしてこの劇の原作となった「満映とわたし」(文藝春秋BOOKS)を読んでみたいと思った。

https://books.bunshun.jp/articles/-/3742

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ゴールデンウィーク 小机城 孟宗竹 

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※写真はクリックすると大きくなります。

  四月に息子と娘が出ていって妻と二人の生活になったが、それを一番実感するのはなかなか米が減らないと言う事。また今まで家族用にと買っていたスーパーのパックの鮭が、同じ値段で数の少ないのを買うようになったせいなのか身が少し厚くなった(気がする)という事。出ていってすぐは家の中がやけに広く感じられ、意識して「淋しい」と口に出さないようにしていても、お互いそう感じているのが見た目にも明らかで、切なかった。

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で、それにもようやく慣れたこのゴールデンウィーク。最初に娘が帰って来て一晩いてまた出ていった。娘は一昨年から去年にかけて重慶に留学していたが、せっかく喋れるようになった中国語の能力が落ちるのが嫌で、大学の、中韓からの留学生の寮に引っ越してそこで暮らしている。学校とインターンとバイトを掛け持ちしていて忙しそうだった。中韓の友人たちと夜ホラー映画を見る会を作ったと言っていた。また台湾のバンド五月天のライブがこの20日に武道館で行われ、それを見に行くのだとのこと。五月に五月天を見る、と自慢げだった。

 息子は一昨日(2日)の深夜に帰って来た。就職した会社の研修で名古屋にいる。文系の学部を出ているのに理系の仕事に就いたので心配していたが、なんとかやっているらしい。良かった。

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 ゴールデンウィークというと以前なら実家のいわきに家族で帰って......というのが通例だったが、何時の頃からか(特に原発事故以降)それもなくなった。今回は特にどこにも出かけず家の周辺で過ごしているが、ここ日野が生まれ故郷の子供らの帰省の様子を見て、自分たちが迎える側になったことに様々な感慨を覚えた。一番考えたのは亡き両親のこと。こんな気持ちだったのかとようやく知った。東京の大学生だった頃、ゴールデンウィークにいわきに帰っても、溜まり場にしていた店に寝泊まりして一度も家に寄らずにまた東京に帰って来てしまったことが確かあった。なんて酷いことをしたのだろうか。

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 写真は休み前半の30日に妻と行った横浜の小机城跡。孟宗竹(もうそうちく)の多い城跡で、なんでも孟宗竹という名は年老いた母に食べさせようと冬に筍を取りに行った孝行息子の名前にちなんだもので中国の故事から来ているのだとか。にょきにょきと皮を突き破って塔が立った竹が、取り損ねた、親不孝の象徴のように見え、またこれからさらに伸びていく(だろう)子供たちのようにも見えた。

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高幡不動の紅葉

 散歩がてらに高幡不動に行ってきた。紅葉がキレイだった。

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Good bye 、冷蔵庫くん。

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 家の近くに新しいスーパーが出来て、開店記念セールでハーゲンダッツのアイスクリームが安かった。先日それを買ってきて風呂上りに楽しみに食べようとしたら、あらら、溶けてブヨブヨになっている。なんとそのタイミングで冷蔵庫が壊れたのだった。以前も似たような事があり、様子を見ていたら症状が改善されたので騙しだまし使っていたが、今回はついに復帰しなかった。それで昨夜、新しいのを買いに行って、今日、配達と古い方の引き取りがやってきた。驚いたのは引き取りに先立ち妻が最後の掃除をしながら見ると、壊れた冷蔵庫の製造年月日は1984年。33年前。

Img_3113 自分はまだ上京する前で、郷里のいわきにいた。ジョージ・ウォーエルが小説に書いた1984。スティーブ・ジョブスがIBMとの戦いにMacintoshで挑み、伝説のプレゼンをした翌年の1984。日本ではチェッカーズの『涙のリクエスト』がヒットしていた1984、そしてブルース・スプリングスティーンのあの『ボーン・イン・ザ・USA』がリリースされたのが1984だ。

 今PCに「冷蔵庫の寿命」と入れて検索すると、だいたい10~15年、と出てくるが、この冷蔵庫はその倍近く生きて?仕事したことになる。娘が生まれたばかりの時、貧しい若い夫婦に近所の電気屋さんが見るに見かねて中古品をメンテナンスして安く売ってくれた物で、その時ですでに13年選手。以後、20年、我が家にあった。人間で言えば何歳だろう?と、愚かにも電化製品を見て考えてしまった。

 妻曰く完全に使えないのは冷凍庫で、他の部分はまだ少しは冷えるのだとの事。妻は「直せばまだ使えるかもしれない」と、引き取り業者が廃棄ではなくリサイクル、という点に最後まで望みを託していたが、ぼくは知っていた。フロン使用なのでそれはもう無いということを。だが、もしも“昭和の暮らし”のような展示がある博物館にでも置いてもらえたら・・・と、ぼくも最後に儚く祈った。そして長年一緒に暮らした大型の電化製品って、まるでロボットのようだと思った。今日の午後はまるで『ロボコン』の最終回みたいだった。

    で、最後に、スプリングスティーンの「ボビー・ジーン」の歌詞になぞらえて、 I miss you baby, Good luck ,Good bye 冷蔵庫くん。長い間、ありがとう。

https://youtu.be/hWAkBrSEh3I

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