漫画『ガラスの仮面』~永続するギターリフ

 

Photo_3「大人になったらエレクトリックギターを持とう」。昔、良く聞いたライブ版の中でニール・ヤングはそう言っていた。

考えるに大型バイクが大人の乗り物と言うのと同じ意味でエレクトリックギターも大人の楽器なのかもしれない。息子がハードロック大好き少年になった影響で、毎晩、様々な人達のギタープレイをDVDやYouTubeで見るにつけ、そんな風に考えるようになった。日々の雑事をしばし忘れ、大音量でこの楽器を自在に歌わすことができたならさぞ爽快だろうなと思う。まるで渋滞の首都高の車の隙間をオフロードバイクで駆け抜けていくように。

最近、仕事場で休憩時間に美内すずえの『ガラスの仮面』を回し読みしている。男のくせに私が全巻持っていると言ったら、貸してくれという人がいてそれで始まったのだが、この漫画は10年くらい前テレビドラマ化もされて、主題歌をB'zが歌っていた。B'zは特にファンということではないし、この曲も初っ端の松本のリフ以外は記憶に無かったが、印象は強烈で、ガラスの仮面、という単語を聞くだけで条件反射のように頭の中でこのリフがプレイバックされてしまう。

http://youtu.be/td8WGpkJt50

この漫画はなんといっても題名が良い。深い。まるで舞台芸術の本質をたった一言で言い表しているような言葉だが、もう少し突っ込んで考えるとこれは演劇化されてしまった現代の日常を言い当てた言葉でもある。日々、日常の演劇化の度合いが深まれば深まるほどに物語がリアルに迫ってくる。

 知っての通り、物語は『紅天女』なる幻の芝居の主役の座を巡って2人の少女が競い合うというものだが、2人がやっているのは演劇空間の中で本当の自分を探し出す、という事でそれは本来不可能に近い。しかし、そう知りつつも読み出したしたら止まらないのは、マヤと亜弓の闘いが、周囲の虚構を全て踏み越えて真実に触れようとする格闘に見えるからで、誰もが見につまされずにおれないからだ。

 私の予感ではこの物語は多分、終わらない。そして仮に、もし予定調和的な最終回というものがこの先あったとしても、読んだ人々の中で北島マヤと姫川亜弓は永遠に闘い続ける筈だ。まるで永遠に続くギターリフのように。

 と、いうわけで、ここ数日、私が囚われているのはグラミー松本のこのギターリフ、もう頭の中で超ヘビロテ状態。

 だ、誰か止めてくれ。

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『荒野の少年イサム』とブランキージェットシティの「悪い人たち」

Wk3557  去年の正月に実家に帰った際、兄弟三人で酒を酌み交わす席で世間話がてらに私はこう言った。「昔、俺たちが夢中で読んだ漫画『荒野の少年イサム』が今、中々手に入らない」と。

『荒野の少年イサム』とは70年代に少年ジャンプに連載されていた少年漫画で、私達が子供の頃はテレビアニメ化もされていた。私と同じ世代の人ならきっと知らない人はいない作品だと思う。

 明治期にアメリカに渡った渡勝之進がインディアンの女性と恋に落ち、生まれた赤ちゃんがイサム。母はすぐ死に、旅の途上で父ともはぐれ、ゴールドラッシュに沸くサクラメントの陽気な金鉱堀り「ロッテン・キャンプ」の男達に育てられるが、洪水でキャンプ壊滅後は強盗の一味「ウィンゲート一家」に悪の手段として天才的なガンさばきを教えこまされる。しかし、それでもイサムが悪に染まらず、正義の側に立ち力強く生きていくという、これは日本初の一大西部劇だった。

 何故、これが手に入らないのだろう?個人的には日米合作で映画化しても良いのではないか?と思うほどの名作なのに。『キャンディ・キャンディ』や『マスター・キートン』のように原作者と作画者がもめたとか言う話は聞かないし・・・私がただ見つけられないだけなのか?

で、今年の正月に去年私がその話をしていたのを弟が覚えていてくれて、なんと!見つけたからと全巻買い揃えておいてくれた。嬉しい!早速、手にとってパラパラとめくるとあれもこれも・・懐かしいシーンが満載である。

そして懐かしいながらもそれらの絵を見て私が一つ感慨深かったこと。それはそこに描かれている暴力描写と不条理な世界観のこと。昔はこんなの別に、普通に見てたのになあ、と思うが、今、夢中で読んでいる同じジャンプの『ワン・ピース』と比べると隔世の感がある。『ワンピース』は面白いが、やはり絶対的な性善説を基本にした物語なので、自らの悪意や暴力性に気付かされるようなことは特に無い。

 例えば『荒野の少年イサム』ではさっきまで赤子のイサムにお乳を飲ませてくれた優しい黒人おばさんが次の瞬間、虫けらのように銃で頭をぶち抜かれて殺されてしまったり、小さなイサムを守ろうとしてキャンプの男達は蜂の巣のようになって死んでいく。

 また、ひょんなことから奴隷の集団の1人とされてしまった登場人物のなかでも重要な一人、黒人のガンマン、ビッグ・ストーンが独力で解放した奴隷達は、心を通わせた小さな少年までもが隣町で凄惨な方法で皆殺しにされている。そして、怒りに燃えたビッグ・ストーンがその奴隷商人に皆の墓穴を掘らせ、旅立たせ、遠方からライフルで狙撃しながらじわじわと殺すのを当時の子供達は拍手喝采して見たものだった。しかし、だからと言ってそれを読んだ私等が暴力に目覚め猟奇的な犯罪に走る性向を身に付けるなんてことは全然無く、ただ、世界は、人間は、このようである、と無意識に学んだだけである。

              ☆

 さて、もう去年の暮れ頃の話になるが、東京都が今漫画を規制する条例を強化しようとしているとのことで、もう『ワンピース』その他の漫画が子供だけでは買えなくなるかもしれないと、息子と娘が憤っていた。性描写が特に問題視されているらしいが、それとセットになって暴力描写もしかり。           

 こういった話は何も漫画に限ったことではない。映画・テレビドラマからロックミュージックの歌詞に至るまで、セリフや歌詞の言葉狩りの問題を見れば分かるように、人間の暗部を含めたリアルな表現と言うのは今極力排除・隠蔽されている。私にはそれがかえって手に負えない問題の萌芽になっているように見えるのだが。

 こういうのは一つの言葉や一描写を取り上げるより、作品の質そのものを問うべきじゃないだろうか?現知事のデヴュー作だって男性の一物で障子を突き破るシーンがあるけど、私はあれはあれできれいな恋愛小説だと思うけど。そうでしょ、石原さん。

             ☆

私にリアルな世界の実相というものを表現として教えてくれたのは間違いなくロック・ミュージックであるが、それも最近は完全に商業主義に毒されてしまって、聞いてざわざわとくるようなものはとんとお目にかからなくなった。    

↓はブランキージェットシティーの名曲。

 http://youtu.be/QwE5R_XI9Xs

 この曲を初めて聞いた時はざわざわときたな。この歌もそのショッキングな内容から当時発売禁止になったりしたが、現在はどうなのだろうか?今、良く聞くと、ただ人間が“平和”を希求する瞬間がリアルに歌われている、性悪説の側からの痛い「ピース・ソング」という風に聞こえるが。

 荒野の少年イサム』に、様々な人種の人々が小さな教会にインディアンに包囲され、戦う巻がある。中に人種差別主義者の白人の女の子がいるが、最後、救出に来た騎兵隊がインディアンを殺すのを見て、「何故、肌の色が違うだけで人は殺しあうのかしら?」と呟くシーンがある。長い戦闘の途中、篭城する教会の中では黒人の赤ちゃんが生まれたりしていて、「生まれた時はどんな人もあんなに喜ばれているのに・・」と。

 この年始、上の漫画のシーンとブランキーの上の歌の最後のリフレインが頭の中で重なった。

 そして、私は息子と娘にはくだらないもの、低俗なものに取り囲まれながらも、本当に良いものを自分で選び出せる人間になって欲しいと思う。

 で、最後に、本当は違う目的があるくせに「子供を守るため」なんてお題目で法を改正(改悪)するのはやめてくれ。

 PS、「悪い人たち」の詞、長いのでコメント欄にペーストしときます。

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漫画『グーグーだって猫である』~Love Life

Photo_3  これはエッセイ漫画なので主人公は著者の大島弓子さんだろうし、また、登場するたくさんの猫達だとも言えるのだけど、本当は“愛”というものの正体を描いた漫画なのだと思う。それは崇高な哲学や観念や一方的な思い込みではなくて、見かえりを求めず、ただ命の温かさのそばにいて触れていたい、またそれを守り慈しみたいという純粋な欲求のことだ。そして、そのような暮らしが身体に残していくであろう記憶の積み重ねのことだ。 

 

 この漫画を読んで、私自身、封印していたつもりの今は亡き愛猫くんに関する様々な思い出が体中からゴボゴボと吹きこぼれてきてしまった。爪を切ってやるときの爪の先を飛び出させようとして押す肉球の感触とか、寝ている布団の上に乗って来たときの重さや潜りこんで来たときの温かさ、そして目覚めたとき、いつも頬に触れていたその毛のくすぐったさエトセトラエトセトラ・・・・。

 

 それらが当たり前にある日常は遠くから眺めなければ分からない点描画の一点に似て、普段は気にも留めないが、遠く離れて見るととても大きな絵になっていたりする。そして、極稀にその一点の美しさに普段から気づいている人がいて、大島弓子さんはきっとそんな人なのだと思う。

 

 実際に漫画第4巻の中にこんなエピソードがある。猫はどんどん増えていくが、その中でも主要な一匹であるビーが突然いなくなってしまう。どんなに外に遊びに行っていても必ず夕方の5時には帰ってきてごはんを催促するビーだが、その日はそれがない。

 

41d0qkhwgl__sl500_aa300_  その視線がないということだけで大島さんは異変を感じ取り、気が狂わんばかりになってビーを探す。他の猫たちも一緒になって探す。いくら金がかかろうと、毎日、納豆ごはんになってもいいからと“ペット探偵”なる高額な輩も雇って探す。そして、探すうちに動物実験に使うためにペット達を拉致する“猫取り”のこととか、近所に猫達を閉じ込めてしまう心無い家があるとかの情報を得て、その不安はピークに達する。「私はこの恐怖に耐えられるだろうか?」大島さんはそう書いている。そう、愛には恐怖が伴う。喪失と、また愛するものが不当な暴力によって傷つけられているのではないかと想像する恐怖が。

 

 結局、ビーは自分で戻ってくる。疲れ果て薄汚れて。勿論、猫は言葉を喋れないからその間、何があったか知る術はないのだが、このエピソードの最後にこんな言葉がある。「ビーがそこに眠っている。それだけで今までの苦しみはうそのように無い。」「何が欠けても一瞬にして崩れる日常の幸福。今ここにあるのだった。」

 

 私はこのエピソードに関しては漫画として読めなかった。私の場合、猫ではなく子供だったが。そして、この件には他者を受け入れ愛するということは、その対象がたとえ猫であってさえもそのような心の試練と不可分なことを教えてくれる。逆説的にそれに立ち向かう覚悟が無い人は一生愛を経験できないのだ。

 

 この漫画は現在4巻まで出ていて連載は継続中らしいが、私は仕事場の大の大島弓子ファンという方に全巻借りて最初から一気に読んだ。それで気づいたことだが、1巻冒頭になぜかライアル・ワトソンの“ものにも魂がある”という言葉が出てくる。そして、座布団や冷蔵庫や洗濯機の気持ちを推し量ったり、話しかけたりするシーンから始る。

 

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 なぜ猫の話をここからはじめるのだろう?と初め不思議に思って読み始めたが、その後、長年連れ添った猫サバの死が語られ、自身のガン体験が語られ・・・としていくうちにハタと気がついた。上のライアル・ワトソンの言葉は突き詰めると同じ地球上に発生した全ての物質は生命・非生命の区別なく宇宙の大きな循環と連鎖の中にあるので、地球を<ガイヤ>という大きな意志を持った生命体として考えた場合、それは仲間とも言うべきものだという意味が(多分)あり、これはネイティブ・アメリカンやその他の先住民たちの持っている思想・メンタリティと同じである。

 

 そして、この視点から物語が始められことに思いを馳せると、その後の猫たちとの話に突如コズミックな響きが加わることに気づく。誕生と死と、その間に横たわるガラス細工のように繊細な日常。洗濯機やプリンターにまで意志を感じ取る大島さんにとってはもはや猫はただの猫ではない。自身のガン体験は漫画の中ではサラリと時にユーモラスにさえ語られているが、本当は激越な死の恐怖とそれを乗り越えようとする努力があった筈で、猫達はその時、宇宙的な命の輝きと循環の象徴そのものだった筈だ。

 

9784041006917  猫は巻を重ねるごとにどんどん増えていくが、主要な猫は4匹である。グーグーとビーとクロとタマ。どれも大島さんの極上の愛の賜物とも言うべき可愛さだが、私はやはりグーグーが一番好きだ。そしてこのグーグーこそが大島さんの思想の“化身”とも思える猫なのだと思う。どんな子猫がやってきても威嚇せず、恐がらず、猫キスをして大らかに受け入れるグーグー。そして必要以上にかまわずに泰然自若としている。

 

 また漫画にはもう一つ隠れたメッセージも感じ取れて、それは「都市と自然の共存」ということ。舞台は吉祥寺で、私も長年住んでいた街なので余計親近感が沸くのだが、このようなテーマを考えるのにあの街は格好の場所だと言っても良い。考えてみれば猫は自然そのもので本来コントロール不能なものだけど、4巻の最後にはついには住処を追われた狸まで出てきて、今後の展開が楽しみといったところ。しかし、今の吉祥寺、武蔵野界隈にまだ狸がいるのか・・・目からウロコな話である。

 

 先日、本屋で立ち読みしていたら「<恋>は下心で<愛>は真心」という言葉に出くわした。筆談ホステスとか言う人の語録集みたいな本だったけど、それでいくとやはりこの漫画は愛の物語だ。愛のある暮らし。Love Life。大島さんがクレイジーなまでに猫=命への愛に突き進む様が心地良い。いつだって当たり前のことを迷いなく平気でやってのける人は偉大だ。

 

 真心という宇宙的な愛が天使のような猫達注がれている。

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